第30話 導火線
せっかくの休みだけど、念のため、病院で診てもらうとするか。
年が明けて10日ほど経ったある日の午前中。前年の秋頃から背中の右側に出来始めていた腫物が気になっていた功は、近所の皮膚科へ行った。
「これは粉瘤ですね。腫れ具合が酷いけど、痛みはありますか?」
「横になった時に少し感じるくらいです」
「そうですか。でも、この大きさから察するに袋の中にはかなりの量の膿が溜まっていますね。こりゃ、うちじゃ、対応しきれないな。今から別の整形外科に紹介状を書くから、それを持って行ってそっちで切ってください」
あれだけ、待たせて、グダグダ言った挙句に手に負えないからって他所に丸投げかよ。
医者の対応にムッとしながらも「わかりました」と頭を下げて診察室を出た。
「立花さん。本日の診察代は結構です。今からこれを持って、先ほど先生が紹介した病院へ行ってください。因みに場所はわかりますか?」
「はい。忙しいところどうもありがとうございました」
受付の女性から診察券と紹介状を受け取った功は、一礼して皮膚科を出た。
この様子だと午前中に帰るのは無理だな。あーあ。こんなことなら小説の1冊でも持参すればよかった。そしたら、暇潰しになったのに。
紹介された整形外科は、平日の午前中にもかかわらず診察室前にある待合室は大勢の患者で溢れかえっていた。
うげぇ。嫌なもの見ちまった。
診察室から一番遠い場所にある長椅子の右端に腰を下ろした時だった。功の対角線上(診察室から一番近い場所にある長椅子の左端)に今世、いや、来世でも絶対にお目にかかりたくない顔があった。
左端はあの横柄な事務員で間違いないとして、その右隣の女は誰だ?
嫌なものほどまとわりつく。そんな言葉があるのかどうかはわからないが、着席してから10分ほど経ったところで横柄な事務員と右隣の女は、功が座っていたソファーの真ん前に移動してきた。
神様お願いします。間違ってもこいつらより先に名前を呼ばないでください。
2人が真ん前に陣取った瞬間。さっきまで1秒でも早く診療して帰りたいと願っていた気持ちは、一瞬にして失せた。
「ねぇ。ところで、あの噂、訊いた?」
芸能人のゴシップネタでひと盛り上がりしたところで、横柄な事務員が唐突に話題を変えた。
「はい。昔、うちで働いていた今井悟志さんという人が精神を病んで亡くなられたっていう話ですよね?それって、本当なんですかね?」
「知らないわよ。でも、火のない所に煙は立たぬっていうから本当なんじゃないの」
「でも、別に誰も確かめたわけじゃないですよね?」
「そりゃ、そうだけど。でも、誰が生きようと死のうと私には関係ないからね」
亡くなった?今井が。嘘だろ?
機械的に詰める女と冷めきった受け答えに終始する横柄な事務員のやり取りを耳にした功は、あとからあとから溢れ出る涙のせいで顔を上げることが出来なかった。
確か、まだ残っていたと思う。あった。これだ。
午後2時半。自宅に戻った功は、事の真相を確かめるため一息入れて気持ちを落ち着かせた後でスマホに登録していた今井の電話番号を押した。
「もしもし。今井です」
電話に出たのは、初めて聞く女性の声だった。
「あのぉ。私は、立花功という者です。今井さんとは以前『双葉』で一緒に働いていました。ずいぶん、連絡していなかったので、久しぶりに電話しました」
女性が電話口に出た時点で、今井の身に何かあったことは容易に推測できた。
だからこそ、敢えて明るく取り繕って見せたが、どうやら杞憂だったらしい。
「息子からあなたのことはいつも伺っていました。こうやって、わざわざ、電話を寄越してくれるくらいだからもうご存じだとは思いますが、うちの悟志は体を壊して先週から市内の病院に入院中です」
母親はボリュームこそ小さかったが、しっかりした声で言い切っていた。
話と違うじゃねぇか。俺の涙を返せ。
完全にお亡くなりモードで構えていた功は、2人のデマ話に思い切り肩透かしを食らう格好となったが、生存がわかったことで別の涙が出ていた。
「あのぉ。立ち入ったことを訊いてもいいですか?」
「はい。私に答えられることであれば」
「ひょっとして、体を壊したのは例の不当解雇が原因じゃないですか?」
失礼は百も承知だったが、功にはそれ以外で若くて体力のある今井が入院する原因が思い浮かばなかった。
「そうです。悟志の再就職が決まると必ずと言っていいほど、玉木やその周辺の輩連中が相手の事業所や会社に顔を出してはあることないこと吹聴しまくっていたみたいです。おかげで悟志は日雇いの仕事でしか働けなくなりまして、そこでの無理が祟ってこのような状況になりました」
あの野郎。昔のスキャンダルが露呈するのがそんなに怖いのか。すべてお前がやったことだろ?それなのに、父親だけじゃ物足りなくてその息子も抹殺しようとするなんて狂ってる。完全に狂ってるとしか思えない。
真面目に働こうとする人間が嫌な思いをする。それなのにやりたい放題のクズ野郎は税金でのうのうと生きている。
そんなのはおかしい。絶対におかしい。間違っている。こんなことが許されていいわけがない。
電話を切った功は、相も変わらず理不尽大王街道をひた走っている玉木に怒りと憎しみの炎を燃やさずにはいられなかった。




