第29話 軟弱エリート
この格好で大丈夫かな?
翌日。待ち合わせ場所に着いた功は、家にあった一張羅のスーツで武藤が現れるのを待っていた。
「お待たせしました」
武藤は、約束の時間より10分も早く現れた。
「立花さん。この辺に美味しい店があるんですよ。寄ってみませんか?」
1分ほど立ち話をしたところで武藤が言った。
食事は別で済ませて、最後の飲みだけ銀座って流れか。確かにあそこは飲むとか喋るってイメージはあっても食べるってイメージはないもんな。
武藤の言葉で功は、少しだけ銀座に対する緊張がほぐれた。
「ここです」
武藤は、待ち合わせ場所から十数メートル先にあった小料理屋の暖簾が掛かった店の前で立ち止まると、ゆっくり戸を引いた。
「こんばんは」
「あっ。敬一さん。お連れ様も奥へどうぞ」
入店した武藤を見るや否や割烹着姿の綺麗な若女将らしき人が満面の笑みで迎えてくれた。
「ありがとう」
武藤に続いて功も奥座敷に進んだ。
「立花さん。最初はビールでいいですか?」
「はい」
「すみません。生ビール2つお願いします」
次があるはずだから、ここでは軽く飲もう。
功は、届いたばかりのビールを舐めるように飲みながら、武藤が勧める料理に箸を伸ばした。
美味しいのは美味しいけど、これ以上は無理だ。
量はそれほどでもなかったが、外食に慣れていなかった功の神経は30分も経たないうちに限界に達していた。
銀座になんか行かなくていい。今すぐ早く家に帰ってくつろぎたい。
功の思いを知らない武藤は、向かいの席でビール・焼酎・日本酒・ワインと次々とお酒の種類を変えながらその都度、若女将が運んでくる料理に「うまい」「美味しいと」舌鼓を打っていた。
「あのぉ。そろそろ、帰りませんか?」
1時間ほど経った頃だった。店内の客がいなくなったタイミングで功は武藤に申し訳なさそうな顔で切り出した。
「明日は休みなんでしょ?夜はこれからですよ。さぁ、食べて飲んでくださいよ」
えっ。
武藤の目を見た瞬間、功は玉木のことを思い出した。
武藤と違って、玉木の場合は素面の段階でも十分に横柄なのだが、体内に1滴でもアルコールの類が入るとその横柄さは一気に加速する。
気のせいかも知れないが、その時の目が向かいに座っている武藤とどこか似ているように思えた。
こいつもあの野郎と同じで酒で変わる人間みたいだな……。
功は、今日を最後に武藤とは縁を切ろうと決めた。
そうでなくてもこんなくつろげない空間で人生の貴重な時間と大切なお金を奪われるのは嫌だった。
「帰ります。足りないかも知れないけど、お金はここに置いておきます」
どの道、関係が悪くなるなら早く別れた方がいい。
意を決した功が武藤に背を向けて座敷を出ようとしたその時だった。
バタン。
背後から大きな物音がした。
おい。おい。まさかとは思うが、死んでないよな。
振り返ると武藤が目を閉じたままの状態で倒れていた。
「大丈夫よ。お連れさん。この人、昔からお酒が弱いのよ。単純に酔いつぶれて寝ているだけだから心配しないで」
心配する功に料理を運んできた若女将が笑いながら言った。
「本当に大丈夫ですか?もし、急性アルコール中毒だったら死にますよ」
「この人。目が据わったなと思ったらいつもこうなのよ。あっ。でも、今日の飲み方はいつもと少し違っていたわね。どこか楽しそうな感じだったわ。これは、私の推測だけど、きっと、あなたのことが気に入っていたんでしょうね」
……ってどういう意味?
若女将の言葉に功の脳ミソは軽いパニックを起こしていた。
「すみません。急にそんなこと言われても意味がわからないですよね。武藤さんはそのままにしてこっちに来てください」
「はい」
本当に救急車呼ばなくてもいいのかよ。
若女将の促しで功は、戸惑いながらもカウンター席に移動した。
「じつは私と武藤さんは……」
若女将は、功にビールを注ぎながら武藤との関係をかいつまんで話した。
「敬一さん、弁護士になるずっと前からうちの店に来ていたけど、その時からよく『俺が弁護士を目指すようになったきっかけはあの柔道の強いお兄ちゃんと出会ったからだ』って言っていたわ。ひょっとして、そのお兄ちゃんってあなたのことじゃないですか?」
「それ、完全に私のことです」
功は照れながら答えた。
「ところで、さきほど、武藤さんは弁護士になるずっと前からこの店に通っていたとおっしゃっていましたが、弁護士になる前は別の仕事をしていたんですか?」
場合によっては相手の心の中に土足で踏み込むことにもなりかねないが、功にはどうしてもそこが気になって仕方なかった。
「えっ」
若女将は一瞬、躊躇したあとでこう提案した。
「ここから喋る内容はあくまでも私の独りごとよ。だから、質問も受け答えもなしね」
若女将からの注文通り功は、無言で首を縦に振って話の続きを待った。
「敬一さん。東大法学部卒だけど成績はそんなに良くなかったみたい。それでも、東大は東大でしょ?卒業後は大手の商社に就職したのよ。でも、そういうところって出世競争が激しいらしいじゃない。あれは、3年目か4年目だったかな。敬一さん、同僚だと思っていた人達に足を引っ張られまくって、人間不信に陥っちゃった挙句に会社を辞めたのよ。そこからの生活は荒れに荒れていたわ。でも、そんな時にふとあなたとの出会いを思い出したみたい。どん底だった敬一さんの心に火をつけてくれてありがとございました」
この人、ひょっとして。
入店した時から客である武藤のことを苗字ではなくずっと名前で呼んでいたことは気になっていた。
イエスかノーか。そこだけ知りたい。
質問も受け答えもしないというルールがまだ生きているかどうかわからなかったが、ここで、引き下がったら、もう、訊く機会はない。
功は、ダメ元覚悟で若女将に疑問をぶつけた。
「あなた達は、元夫婦ですよね?」
功の問いに若女将は笑いながら頭を下げた。
そのあとで、こう続けた。
「職業柄、融通が利かないところもあるけど、根は生真面目で優しくていい人なのよ。これからも仲良くしてくださいね」
馴れ初め。夫婦生活。別れた理由……他にもいろいろ訊きたいことはあったが、2人(元夫婦)にしかわからない領域に足を踏み入れるのは野暮以外の何者でもないことを知っていた功は、あとのことは若女将に任せて店を出た。
エリートも大変だな。
今年最後の個人的な飲み会は、異次元の挫折話が肴になった。




