第28話 瓢箪から駒
へぇ。ここって、1階から6階まで全部『法律事務所』なんだ。都内の一等地でこれだけ立派なビルだとさすがに毎月の家賃も尋常じゃない額なんだろうな。
12月初旬。会社の大事な取引先である不動産管理会社からの依頼で、急遽、都内某所(一等地)にあるこのビルの1階から3階までの廊下・トイレ・喫煙所内の掃除をすることになった功は、その、立派過ぎる外観に圧倒されていた。
あの人、さっきからチラチラ見ているけど、トイレに忘れ物でもしたのかな?
午後4時。3階の西側奥にあるトイレの掃除をしている時だった。
トイレの入り口付近に立ってこっちをチラチラ見ていた男から声を掛けられた。
「あのぅ。間違っていたらすみません。ひょっとして、以前、『船橋』っていう定食屋で働いていませんでしたか?」
『船橋』という懐かしい響きを耳にした功は、水道の蛇口を閉めてからやや俯き加減の状態でゆっくり男の方に顔を向けた。
「はい。20年くらい前ですが、アルバイトで働いていましたよ」
「そうじゃないかなと思っていたけど、やっぱり、そうでしたか」
「はい。ですが、20年も前のことなので覚えていないことも多いです」
「ですよね。でも、私の方はよく覚えていますよ」
「そうですか」
ていうか誰?勝手に盛り上がるのはいいけど、こっちはさっさと仕事して帰りたいのよ。
むやみやたらに話を続けようとするスーツの着こなし抜群の長身痩躯の若い男に精一杯の愛想笑いを浮かべながら「仕事が途中なので」といって、止めていた水道の蛇口を捻ろうとしたその時だった。
「柔道の強かったお兄ちゃんでしょ?名前は確か『いさお』さんだったかな?」
男の言葉に功は、水道の蛇口を捻るのを止めて、今度は真正面からまじまじと男の顔を見た。
「ひょっとして、あの時の小学生か?」
「はい。武藤敬一です。その節は大変お世話になりました」
「あの時も大きい子だなぁとは思っていたけど、さらに大きくなったね。今、身長何センチ?あっ、待って。当てるよ。183センチかな?」
実寸185センチの新平より少し低いと思った功は、184センチか183センチで迷った末、後者を口にした。
「正解です。一発で当てられたのは初めてですよ。柔道より凄い特技じゃないですか。お見事です」
「こんなことで褒められたのは初めてだよ」
「183センチはなかなか言い当てられませんよ。これって、特技というより一種の才能だと思いますよ」
「そんな大袈裟な」
「実際に一発で当てた。それ、かなり凄いことですよ」
武藤の畳みかける褒め殺しに功のテンションは一気に上がったが、雑談に華を咲かせる暇はない。
「ごめん。そろそろ、終わらないといけないから」
「こちらこそ、嬉しさのあまり仕事の邪魔をして申し訳ありませんでした」
武藤は残念そうな表情を浮かべたあとで、スーツの内ポケットに右手を入れた。
「これ、私の名刺です。いつでも連絡してくださいね」
「ありがとう」
先を急いでいた功は、名刺を受け取ると作業着のポケットから取り出した長財布に入れてトイレを出た。
「あなたって、昔は結構、暴れん坊だったのね。イメージと違うからびっくりしちゃった」
「違う。違う。あれは大将に命令されて仕方なく動いただけ。俺だって内心、ビクビクしていたよ。でも、まさか、あの時の子とあんな場所で再会するとは夢にも思わなかったよ」
その日の夜。里佳子が寝たあとで功は泉に武藤との出会いを語って聞かせた。
「それはそうと、その人、どんなお仕事なの?あのビル、確か、弁護士事務所とか会計士事務所が多く集まっていたわよね」
「いけねぇ。忘れてた。悪いけど、あれ、持ってきてくれる?」
功は、壁にかけていたリックサックを指差した。
確かこの辺に入れたような。
泉からリュックサックを受け取った功は、ファスナーを開き、抜き取った長財布の中身を調べた。
あっ。あった。これだ…えっ…。
『武藤・沢井法律事務所
弁護士 武藤敬一(keiichi muto)
日本弁護士連合会登録番号:No.12345
〒100-0000 東京都千代田区〇〇1-2-3〇〇ビル3F
Tel:03-☓☓☓☓-☓☓☓☓/FAX:03-☓☓☓☓-☓☓☓☓
Email:muto-sawai@☓☓☓☓
URL:http://☓☓☓☓・・・・・・』
20年で人ってこんなに変わるのか。いや、待てよ。こんなもの作ろうと思えば誰でも作れるじゃないか。
案外、詐欺師だったりして。玉木で鍛えられた俺を甘く見るなよ。俺は、いつ何時でも確かめる男だよ。
功は、スマホを手にすると名刺に記されていたURLにアクセスしてみた。
あっ。本物の弁護士だ。
画面の向こう側に今日、トイレで見た武藤が満面の笑みで載っていた。
社交辞令のつもりで言ったかも知れないけど、暇だから掛けてみるか。
再会から5日ほど経った日の昼過ぎ。
この日、所用で午後から年休を取っていた功は、用事を済ませたあとでダメ元覚悟で名刺の番号に電話した。
「もしもし。立花ですけど」
「立花さん。あれからぜんぜん連絡ないから、ひょっとして、名刺、なくしたのかと思いましたよ」
「そんなへまはしないよ。でも、こういう敷居の高いところに電話したことないからなんだか気後れしちゃって」
「嘘でしょ?あんなに短時間でバタバタやっつけていた人が電話1つ掛けるのにビビるなんて信じられませんよ」
連絡が来たことがそんなに嬉しかったのか。受話器越しに聞こえた武藤の声は、弾んでいた。
「そうだ。今度の土曜日、暇ですか?もし、都合が良ければ飲みませんか?」
「いいね」
「それじゃ、前日の夜に改めてこちらから連絡します。もし、都合が悪くなったら遠慮しないで言ってくださいね。私もそうしますので」
「わかった」
あんなビルに事務所を構えているくらいだから、少なくても年収ウン千万は稼いでいるだろう。となると、銀座の高級クラブで飲むに違いない。
俺、スーツも靴も安物しかないけど、大丈夫かな?
興奮と緊張でこの日は、午前零時を回っても目を閉じられないでいた。




