第25話 降板
またかよ……。はい。はい。行きますよ。
午前1時を少し回った頃。この数分前から始まったナースコールのラッシュで完全に眠りから覚めた功は、横に置いていたペットボトルのお茶を一口だけ啜ると重い腰を上げて仮眠室(といっても畳一畳分もない空間に簡易ベッドが一台だけ置かれている狭くて汚い部屋)を出た。
おばちゃん、また、どこかで油売ってやがるな。まったく、これで、手当(夜勤手当)は同じだもんな。納得いかねぇぜ。
パートを含め確実に3人以上はいる日勤と違い、完全2人体制の夜勤は相方のアタリ・ハズレが大きい。
「どうしました?」
ランプが点滅していた居室に入った功は、コールを止めたあとで利用者に尋ねた。
「……」
その利用者は、功からの声掛けには一切反応せず、ただひたすら右手に握られていたコールのボタンをカチャカチャ押しながら満面の笑みをこちらに向けていた。
もう。何もわからないんだろうな……。
今、対峙してる利用者は、最近、認知症の進行具合が急速に進んでいるせいか、用もないのに頻回にコールを押したり、柵にかけているベッドのリモコンをいじったりすることが多かった。
そのため、夜勤者によっては遅番者が帰ると同時にコールの線を抜いているという噂も聞いている。
「コールはこっちに置いておきましょうね」
功は、利用者の手からコールを引き離して毛布を掛けた。
まったく、あのおばちゃん、どこで油売ってんだよ。あー。今夜の相方があいつだったら少しは楽だったのに……。
今井が辞めて半月が過ぎていた。
相変わらず続いている人手不足。口を開けば陰口か悪口ばかりで、給料分すら働こうとしない職員達。そして、その最悪な状態を平気で放置している経営者サイド。
それでも潰れないのは、功を含む数少ない生真面目な職員が縁の下の力持ちとなり粉骨砕身で働いているからだ。
俺も不幸だけど、こんなところに入所している利用者も同じくらい不幸のような気がする。
そうは思っても、今の功に出来ることは与えられた仕事を淡々とこなすことだけだ。
「ねぇ。あなた、最近、太った?」
「お父さん。そのお腹はやばいよ」
夜勤明けの昼飯前。風呂から上がった功の体を見た泉と里佳子が笑いながら言ってきた。
この場合、普通の父親なら<そうかな?>とか<そんなことないよ>と言葉を濁すだろう。
でも、根が馬鹿正直な功にその返しはなかった。
「やっぱり、そう思う?俺も気にはなっていたんだよ」
「気を付けないと。あなたも私もアラフォーなのよ。このままぶくぶく太って生活習慣病にでもなったら仕事どころじゃなくなるわよ」
「お父さん。私が結婚するまでは元気で働いてね」
「結婚って、お前、まだ、10歳だろ?」
「二十歳で結婚するとしたら、あと10年しかないのよ。その時に『うちの父親は体が悪くて無職です』って相手の親に伝えるのだけは避けたいじゃない」
「……」
病気も無職も怖いけど、その前に、このおじさん体型をどうにかしないと。
前日の里佳子の言葉に触発された功は、翌日、朝食を済ませると前日の夜に考案した運動メニューをこなすべくジョギングシューズを履いて近隣にある総合運動公園へ向かった。
散歩は、週2回(明けと休みの日)30分以上でOK。
但し、体調や天気が悪い日は無理に歩かない。
筋トレは、スクワットを30回×3セット。その合間に上半身だけの軽いストレッチを10秒×3セット。
仕上げは、子供の頃にテレビで観た新日本プロレス方式のスクワットを20回×1セット。
もちろん、疲れている日はやらない。
メニューからもわかるように、まずはいかにして運動する習慣を途切れさせないかということを優先させた。
「立花さん。ちょっと、いいかな?」
この声は、また、あいつだな。
毎度、毎度、忙しい時に限って来やがって。性格が悪いやつは漏れなく間も悪いっていう法則でもあるのかよ。
ある日の午後のことだ。
職員からトイレの詰まりを直してほしいと頼まれていた功が、狭いトイレの中で悪戦苦闘していると、例の若い女性事務員はそんなこと知らなわいといった感じで「中川さん達が呼んでいるから早く事務所に来て」とだけ言ってさっさとその場を離れた。
中川さん達じゃなくて、呼び出しの主は玉木だろ?それでもって、行ったら行ったで<外に出よう>とか言って連れ出すんだろ?
あー。もう、ここの連中ってどうしてこんな無駄なことばかりするんだろう。
前回の記憶が強烈に頭の中に残っていた功は、憤る気持ちを堪えながら事務所へと急いだ。
「立花です」
事務所に入ると、中川と玉木は前回と同じく横並びでひそひそ話をしていた。
「そんなところに突っ立てないで、どこでもいいから座れ」
「はい」
玉木に促された功は、長椅子の右端に座った。
パターンは前と同じだけど、なんか知らんけど、この前よりもさらに邪悪な空気だな。
10秒後。この直感は、恐ろしい現実となった。
「単刀直入にいう。立花。お前、今日で終わりだ」
玉木は言うなり首を掻っ切るポーズをしてみせた。
グレート・ムタかよ……って、ちょっと、待って。それって、ひょっとして、クビってこと……。
しょうもないツッコミが霞むほど狼狽していた。
「わかりました。ですが、その前に解雇の理由を教えてください」
玉木を筆頭に『双葉』の一族には積年の恨みがあるので、本来なら<てめぇ。この野郎>とか<ふざんけんじゃねぇぞ>と怒鳴り散らしても全然おかしくないところなのだが、日々の抜けきらない疲労と一家の大黒柱であるという理性がその暴走を食い止めたことで冷静に言い返すことが出来た。
「知りたいか?」
「はい」
「うーん。弱ったな。どうしよっかな?」
こいつ。マジで馬鹿なのか?議員のくせに勉強不足が過ぎるぞ。
法律で正規職員は簡単に首を切ることが出来ないということを知っていた功は、内なる余裕を見透かされないようにして玉木の言葉を待った。
しかし、次の発言で『双葉』という組織の本当の怖さを思い知ることになった。
「組織批判だ」
「どういうことですか?」
「これ、今年の職務規定だ。ここにしっかり明記してあるだろ?」
玉木は、該当するページを開いて功に手渡した。
ひょっとして、あのことか……。
あれは1週間前のことだ。
長年にわたって『双葉』と良好な関係にあった他施設の理事長が次の市長選挙に出馬するので、全職員で票集めするようにと朝礼の時に玉木本人から直々に指示があった。
<仕事だけでも手一杯なのに。本当、嫌になっちゃうわ>
<同感です。だいたい、業務外で票集めってしろって、あいつ、どう考えてもまともじゃないですよ。馬鹿は死ななきゃ治らないってあいつのことですよ>
よせばいいのに。功は、お昼を一緒に食べた大人しそうなおばちゃん職員に乗せられて、玉木のことをあいつ呼ばわりした挙句に強烈な毒まで見舞ってしまった。
考えたくはないが、恐らく、この会話をおばちゃん職員が玉木に密告したのだろう。そうじゃないと、こんな事態になるわけがない。
「お前みたいな非協力的な職員はうちに必要ない。まぁ。俺も鬼じゃない。ここで詫びを入れるなら解雇じゃなく依願退職という形にしてやる。わずかばかりの退職金だけど、ないよりはある方がいいだろ?」
どっちにしても密告された時点で俺の負けってことなのね。
「すみませんでした。それと、今までお世話になりました」
「わかればいいだよ」
家族の生活を守るため、功は、8年半働いた『双葉』を退職した。




