275 老婆と穏やかな春の家
激しく揺れる船の上、誰の目も届かない甲板の隅で霞のように現れた人物は、目の前の空間を鏡のように変化させ、手足や服装など自分の容姿を確認すると満足げにうなずいた。
さらに、伸びていた背筋を曲げて肩を窄め、手の中に生み出した杖を突けば、どこからどう見ても老婆だ。
続いて試行錯誤しながら表情を作り、鏡を霧散させる。
完璧な老婆に化けたその存在は、揺れをものともせず扉から船内に入るが、近付く気配に足を止め、ロープで固定された近くの木箱に腰を下ろす。
扉の小さな丸窓越しに外を眺めながら、通行人をやり過ごそうとする。だけど、相手は無視してくれなかった。
「お、おい、婆さん、何やってんだ? 海が荒れてんだから、こんな場所にいたら危ないぞ!」
「ん? おや、アタイのことかい?」
「そうだよ。他に誰もいないだろ? もし動けないってんなら、俺が送ってやるよ。部屋はどこだ?」
赤髪の男は、老婆がこの揺れで動けなくなったと思い、手を貸そうとする。が、それを片手で遮って、老婆は首を横に振る。
「アタイを誰だと思ってんだい? この程度の揺れ、いつものことさね。それよりアンタ、ずいぶんと調子が悪そうだね」
不機嫌そうに答える老婆だったが、言葉の途中で素っ気なさが消え、声をかけてきた男を心配そうに見つめる。
「まあ、大陸の者に、この波は辛かろう。ふむ、ちと待ちなされ。たしか……」
自分の懐をまさぐった婆さんは、取り出した紙袋をクロウに押し付ける。
「ほれ、知り合いの薬師からもらった酔い止めだ。持ってけ」
「えっ? いやまあ、ありがたいけど……いいのか?」
「大陸に行く度に押し付けられっけどもな、アタイは使わねぇから、毎度困ってる者にくれてやってんだ。まあ、いらないってんなら無理強いするつもりはないがね」
本当に受け取っていいのか? 使っても大丈夫なのか? ……などと思いつつも、親切な赤髪の男──クロウは紙袋を手に取る。
「まあ、ありがたくもらっとくよ。……にしても、波が荒いって聞いちゃいたけど、ここまでとは思わなかったよ。もらっておいて何だが、これじゃ多少効き目があったところで意味あるか分かんないよな」
「ふぉっほ、……世界一の薬師に作ってもらった物だけに、効果は間違いないさね。……むろん、世界一ってのは、あやつの自称だがね」
何が可笑しいのか、婆さんがケタケタと笑い始める。
「世界一の薬師か……。それって、どこに住んでんだ?」
「東の島のクルアって村さね。竜骨堂っちう店の婆さんでな、なんでも高名な薬師の弟子って話さ。島に伝わる特別な秘薬っちう話だが、ほれ、この通りアタイにゃ不要だから、持ってけ」
「俺よりも、連れが大変なことになってるんで助かるよ。お代は……」
「んなもん、いらんよ。いや、そうさな……代わりに、島の者に優しくしてくれりゃ、そんでええ。じゃあな、若いの」
激しい揺れの中、腰が曲がって杖を突きつつも、苦も無く立ち上がった婆さんは、ゆっくりと、だが危うげなく船内を歩いていく。
まるで、揺れに合わせて踊るかのように……
春の日差しのような、穏やかで暖かな高原の一軒家。
タイル張りの床に布張りの屋根のある吹き抜けテラスで、見目麗しい貴婦人がティーカップを傾けつつ本に視線を落として寛いでいる。
家の他に人工物らしきモノはない。
それどころか不用心なことに柵すらないが、すぐ近くで鹿や熊、兎や狼など、様々な動物たちが争うことなく気ままに過ごしている。
人の姿は女性のみ。その周りで、小鳥や蝶が自由気ままに戯れる。
何かを感じ取ったのか……
視線を上げた女性がパチンと指を鳴らすと、傍らの空間に執事らしき青年が現れ、胸に手を添えて頭を下げる。
……が、そちらを見ることなく、女性が指示を出す。
「ルキリアを労ってあげて欲しいのだけれど」
「うむ、承知した。して、主には何を?」
「私? そうね……。でしたら、ソルトクッキーと青マルをお願いしますわ」
「すぐに用意しよう」
青マルとは、葡萄の発酵酒を蒸留した青葡萄焼酎のことで、控えめな甘味と馥郁たる香りが特徴の大人の飲み物……だが、一般的には塩味よりも濃厚な甘味との相性が良いとされている。
それはさておき……
執事にしてはずいぶんと体格が良く、言葉も態度も砕けた様子だが、それもそのはず、この男の本職は執事ではない。
男の名はボールド。
世間的には水晶の騎士と呼ばれ、救世の三英雄のひとりに数えられる人物だ。なのに、執事の真似事をさせられている。
そこへ、杖を突く老婆が現れた。
「エーデワルト様、このルキリア、無事使命を果たして帰参しましたよ」
「おつかれさま」
姿こそ老婆だが、声や口調は本来の、子供のような若々しいものに戻っている。
その差異に苦笑する貴婦人だが……
執事は眉を吊り上げる。
「おい、ルキリアよ、なんだその格好は?」
「どう? 見事な化けっぷりでしょ?」
ルキリアと呼ばれた老婆は悪びれず、曲げてた腰を伸ばして、どうだとばかりに胸を張る。
老婆の姿で行われる若々しい仕草の数々に気勢が削がれたのか、執事は言葉を飲み込むと、呆れたように深々とため息を吐いた。




