80、兎⑨
こういう事は、もっとロマンチックなムードが重要なのではないだろうか、と思った。例えば『好きだよ』とか『愛してる』とか『きれいだ』とか、言った方が良いのかもしれない。ご先祖様は、少しテレるが、チョッとたけ言ってみることにした。
「好きだよ」
反応が無い……。
「愛してる……」
ご先祖様は二の矢を放った。
兎は『ん……』といった顔をした。ご先祖様は、状況がどんどん悪い方向に向かっているのかもしれない気がした。しかし、ともかくも状況は動いている。動いているものは簡単には止まらない。
「観音様は、天女のように清らかで美しいな~」
ご先祖様の第三の矢が放たれた。兎は、マジマジとご先祖様を見ている。その目は、少しもウルんでいない。そのかわり、疑惑の色が浮かんでいる。
なんか、良くない結果になってしまった。もう、いいムードが出ないばかりか、余計な疑惑が出てきてしまったようだ。
「どうしたのご先祖様……。急にヘンなこと言い出して、大丈夫?」
「うん、いや……」
ご先祖様は改めて、新人の即物的な一面を垣間見る思いがした。ひょっとしたら、こいつ等は『愛』とか『恋』とかを理解していないんじゃないだろうか。つまり、愛とか恋とかの言葉は知っていても、本物を知らないのじゃなかろうか。人は在るものは理解できても、無いものを理解するのは難しい。
「親鸞さま、なんかムズカシイ顔をしてらっさるけど……」
「あは、いや、そうかい」
ご先祖様は、自分の顔をツルリと撫でた。
「兎は、俺が今ヘンなことを言い出したと不思議に思うだろうが、あれはネ、呪文とかシキタリもようなものでネ、例えばキリスト教徒なんかが食事の前に『主よ、今日の糧を感謝します。アーメン』とか何とか言うだろ。坊主も念仏を唱える前に、合掌するだろ。日本人は食事の前に『いただきます』と言うだろ。
つまり、旧人には、いろいろとシキタリとかキマリがあってネ、俺が先ほど言ったことは、これからナニをやろうとする時は必ず言わねばならない言葉なんだ」
「あら、そう……、知らなかった。旧人の世界はいろいろと難しいのね」
兎はちょっとだけ厳粛な気持ちになった。
『こんな事で、うまく行くんだろうか』ご先祖様は、再び自問した。
突然、ご先祖様の頭の中で何かが閃いた。頭の中の何かのスイッチがパッと切る替わった。何かがフッ切れたごとく、ご先祖様はやおら立ち上がると、自分の服をかなぐり捨てた。




