72、山の向こう②
廃屋の脇には、ツル植物からの侵略を免れた巨大なタイサンボクが、艶やかな丸みのある大きな葉を繁らせていた。タイサンボクには、大振りの大雑把なつくりの白い花が咲いていて、この近辺に妖しげな芳香を漂わせている。
「……」
ご先祖様は息を呑んだ。無残な旧人の夢の跡が、眼前にある。
廃屋はかなりの規模があり、壁がボロボロに剥がれ落ち、所々が崩れかけていた。
ご先祖様がドアを開けようとしたら、ドアはひとりでに向こうに倒れてしまった。
「
ねえ、ごせんぞさま。ここ、危なっかしいですよ~」
兎は中を窺いながら、コワゴワと掠れる声で言った。
「うん……」
ご先祖様も同感だが、それ以上に好奇心が勝った。屋内に入ると、屋外とは又違った刺激臭があった。それは、屋外のとは別次元の強烈な吐き気を催す禍々しい刺激臭であった。その上屋内に入ってから、ガイガーカウンターは『ヂ……ヂ……』と間欠的に鳴りだしている。
「何か、ここの様子はただ事ではありませんね~」
刺激臭が目にしみるのか、犬が目をシバシバさせながら不安そうだ。
なお進んで、ご先祖様が突き当りのドアを蹴倒すと、そこはかなりの広さの部屋であった。かなり大きな袋がゴロゴロとたくさん転がっている。
「何だろう?」
「さあ」
ご先祖様は、床に転がっていた棒切れでそれを突ついてみた。意外にあっけなく袋は裂け、湯気のようなホコリを立ててボトボトと何かが落ちてきた。
「何だ?」
刺激臭が一段と凄まじいものになった。どうやら、これが刺激臭の元凶らしい。
「うわっ!」
「何だ、これはっ!」
犬と兎はパッと後ずさった。見ると、ボトボトとこぼれ落ちた物は人間の手首の骨だった。手首のほねに薄皮が張り付いている物や、肉片がアメ色のミイラ状になっている物、ほとんど骨だけの物、そのどれもこれもが人間の手首だった。
『何ということだ!』ご先祖様は慄然とした。
アウシュビッツで、侵略した日本軍が中国大陸で、ソビエト厳寒の地コリマで、熱暑の国カンボジアで、そして……こんな辺鄙な山奥で……。
救い難い愚劣、狂気の沙汰、おそらく人狩りが行われたのだ。殺人の証明として手首を切り落とし、いくばくかの賞金をせしめたのか。
真っ黒な怒りに、ご先祖様は立ち眩んだ。怒りに震えおののく手で棒切れを持ち直し、力まかせに袋に叩きつけた。袋は簡単に裂け、モア~と湯気のようなものを立ててドドッと手首が床に崩れ落ちた。
「ひえ~!」
「止めてぇ~!」
犬と兎が悲鳴をあげた。もはや、耐え難いまでの臭気が室内に充満していた。見ると、ガイガーカウンターまでが『ヂヂヂー』と大きく振れている。ご先祖様は何かに憑依つかれたように、凄まじい形相で棒切れを振り回した。憎しみの対象が袋であるが如くに、狂打した。が先祖様は、なざし難い怒りに駆り立てられていた。
「バカめ!、罰当たりめ!、性懲りも無くこんなことを繰り返して、何というバカなことを!、消えろー、無くなれ、無くなってしまえー!」
ご先祖様の怒りの対象は、その当時の人類だ。当然、もうすでにもぬけの殻だった。
虚しい痕跡でしかなかった。それでも、解かっていても、どうしようもなく怒りがこみ上げてきた。ご先祖様は、痕跡を叩かずにおられなかった。
パンパンパンー!
「止めろー、旧人!」
犬がピストルを手にしていた。
「止めてー、ご先祖様―!」
兎が哀願していた。
やっと、カランと乾いた音を立てて、棒が床に落ちた。振り向いたご先祖様の目には、滂沱と流れる涙があった。
「さっ、もう、帰りましょう」
兎がすばやく駆け寄り、ご先祖様の手を引いた。
それから、ご先祖様は無口になった。陰気っぽくなってしまった。まるで自分に労役を科すかのように、黙々と働き汗を流していた。ご先祖様は、ことさら炎天下に働き自らを酷使した。その方が、気が休まるように思った。
それでm、泥のように疲れても、もんもんと眠れぬ夜は続いた。夢の中で手首を見た。うなされて、思わず目覚めてしまうこともあった。
ご先祖様の長く、暑い、懊悩の夏は続いた。




