八話 尽きない悩み
その夜。
シャワーを浴びても、心臓の鼓動は収まらなかった。
放課後の瀬能の言葉が、まだ耳にこびりついている。
――俺、お前と付き合ってみたい。
――試しに、キスからでもいいか。
(あああああ! 思い出すな俺! 顔が熱い!)
ベッドに潜り込み、枕を抱きしめて何度も悶絶した。
目を閉じれば蘇る吐息の感触。自分の情けない姿。
(これ……ただの“衝動”じゃなかったらどうすんだよ!)
週末だから、瀬能に会わずに済む。それだけが救いだった。
けれど興奮は冷めきらず、結局ほとんど眠れなかった。
◇
翌朝。
重いまぶたをこすりながらリビングに降りると、珍しく母がソファに座っていた。
夜勤明けらしく、まだ仕事着のまま湯気の立つマグを手にしている。
「おはよう、充希」
母がにこやかに声をかける。
「……おはよ」
充希はソファに沈み込む。寝不足で頭がぼんやりする。
母はちらりと顔を覗き込み、ふっと笑った。
「ねえ、学校で何かあった?」
「な、なんで……」
心臓が跳ねる。昨夜の瀬能の顔が脳裏に浮かんだ。
「父さんから聞いたのよ。クラスメイトに“噛みついた”んだって?」
「っ……!?」
思わず声が裏返った。耳まで熱くなる。
「……父さん、余計なことばっか言いやがって!」
「ふふっ、やっぱり図星なのね」
母は意味ありげに微笑む。その目は笑っているのに、まるで心の奥まで覗かれているみたいだった。看護師だからか、ちょっとした顔色の変化すら見逃さない。
「……でも、それだけじゃないんでしょ?」
「べ、別に! なんでもないから!」
充希は慌ててテーブルに突っ伏した。
(やばい……これ以上は絶対言えない! 瀬能のことなんて、知られたら……!)
◇
そこへ、夜勤帰りの父がリビングに入ってきた。
ジャケットを肩に掛け、片手で煙草を弄びながらニヤリと笑う。
「……母さん相手に取り繕っても無駄だぞ、充希。なんだ、告白でもされたか?」
「っ……!? だ、黙ってろ父さん!」
顔を覆った枕に声が吸い込まれる。耳まで真っ赤だ。
父は楽しげに笑ったが、すぐに表情を引き締めた。
「……で、本題だ。怜が就活でこっちに来る。日曜の夜に着くから迎えに行け。俺も母さんも夜勤で留守になる」
「怜が来るの!? マジで!? やった!」
充希は寝不足も忘れて顔を輝かせる。
「しばらくうちに泊まるってこと? 楽しみ!」
「遊びに来るんじゃねえぞ」
父は渋い顔で煙草を置いた。
「……一応、お前が“発症”したことは怜にも伝えてある。ただな、あいつは昔からお前に甘い。しかもヨーロッパの田舎暮らしが長かったせいで、人間相手にズレたことを平気で口にする。お前まで余計なことを漏らせば、すぐにボロが出るぞ」
「わかってるって!」
勢いよく答えたものの、胸の奥はざわついていた。
瀬能のこと。昨夜のキス未遂。
言えるはずがない秘密を抱えたまま、充希は頭を抱えた。
――怜が来る。
心強くて、ずっと憧れてきた従兄弟。
けれど、その名前を思い浮かべるだけで、不思議と胸が重くなるのだった。




