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エインヘリャル物語 〜橘啓吾 列伝〜  作者: 真面目 雲水
第一章 転生した剣客
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閑話 スフュレリアという女

本日最後の投稿です。

次回からは新章に突入します。

少し大人になったエリアスの活躍をお楽しみに!


 異世界の空に、二つの月が登っている。

 地球のそれとはだいぶん違う大きさのそれは、大月と小月などと呼ばれて古今詩人たちの胸を震わせてきた。


 今日の大月は三日月、小月は望月の少し前であろうか。

 雲の切れ間から差し込む光の帯が、ハミル湖の辺りに落ちている。

 勿忘草わすれなぐさの原にぽつりと立つ紫丁香花むらさきはしどいがその光を浴びて妖艶に映っている。


 こういう景色を花天月地かてんげっちというのだろうか。


 そのハミル湖の水際にいま、スフュレリアは腰を下ろしている。

 彼女は薄布から出した両足を湖に放り出していた。

 どこからともなく寄ってきた小魚がその足先をつっついて、こそばゆいのか身じろぎする様はなんともあどけない。

 触れれば壊れそうな泡沫うたかたの美が、そこにある。


 ふと、スフュレリアが笑った。

 彼女の目はここ・・を見ていない。

 里長の館で奮闘するアネルマやその弟子ヘンリク、すみでひたすら包丁を振るうアルトゥーリを眺めている。


 つまりは、彼女の体が二つ存在しているのである。

 湖に遊ぶスフュレリアと館で立ち回るスフュレリア、そのどちらも一つの存在なのである。

 啓吾と代行者のところへ行ったとき、同時にアネルマと密談ができたのもこのおかげであった。


 彼女たちフュルギアの民にとって、自らの体を二つや三つに増やすことは造作もない。

 水はその形を定めないのだから。


 フュルギアという種族は実に不思議なものなのだ。

 安寧と癒しを司り、水とこるところに棲んでいて、その本質は精霊にほど近い。


 なんでもフュルギアの民というのは神代の昔、冥王との決戦の折に生まれた種族だとスフュレリアは聞いたことがある。

 

 神々と全ての種族が手に手を取って冥王とかのしもべ・・・たちと争った七日七晩の一大決戦。

 その戦で山は欠け、大地は干上がり、海は裂け、森は暗闇に沈み、空は燃え上がったと言い伝えられる。


 やがて冥王は滅びたが、決戦の地は多くの死によって穢れ、呪われたとか。

 神がその地を水面みなもの底に沈めた時、新しく生まれたのがフュルギアの民だと、スフュレリアはそう聞いた。


 姿を定めず、深く精霊に交わるフュルギアの民は神々に気に入られ、それぞれに住処を与え、安寧と癒しを託された。

 それゆえに彼らは決して人を殺さない。

 だからこそスフュレリアは啓吾たちを助ける時にオルクを殺めることができなかったのだし、ヴァルネリの時も誰かが止めに入ると分かっていて振る舞ったのである。


 フュルギアの民に寿命はない。

 永久の時を、ただひたすらに自由に生きる。

 神々から託された使命だけをよすがに。


 スフュレリアの使命は大分昔に果たされた。

 アニム族最初の王、ワイナとの契約である。


 彼のことを思い出すたびにスフュレリアは胸が暖かくなる。


 優しい、実に優しい男であった。

 透き通る白銀の髪に狐の耳を覗かせて、慈愛のこもった瞳で彼女を見つめてくれたものである。

 文武に通じ、凄まじい魔力を持った偉大な男であったが、スフュレリアにとっては彼の優しさが何よりも美しかった。


 晩年、あるがままにしていた彼の髭が腰まで届くようになっても、ワイナは変わらず優しい目をしていた。

 あの頃はまだオーストレームの里もハミル湖のそばにあって、年老いたワイナはスフュレリアを置いて逝くことを幾度となく泣いたものである。

 たとえ自分が死んで新しい生を得ることになり、ワイナとしての記憶を失ってしまっても、それでも彼女を愛し続けると彼は誓った。


 だから、神々から頼られてワイナが死後に異界へと渡らねばならなくなった時、スフュレリアは迷うことなく己の魂を分けた。

 分けて彼の魂に寄り添わせた。


 里の場所が移り、隠された洞窟にワイナの遺体を埋葬し、契約の短剣を墓標として、スフュレリアは待ち続けたのだ。

 たとえワイナの魂も、彼女から分けた魂も記憶を失ったとしても、それでもきっと約束が果たされ戻ってくる。


 彼女はそう信じて短剣を守り続けた。

 願いを託した勿忘草でかつての里を埋め尽くし、ワイナが好んだ紫丁香花を一つ植えて、過去を偲びながらこの地を癒し続けたのである。


 気が遠くなるほどの悠久の時を経て、ワイナは帰って来た。

 懐かしい魂の香りを運び、ずっと昔に別れた己の魂と共にスフュレリアの元へと現れたのだ。

 名前が、姿形が変わっても彼女には分かったのである。

 彼こそが運命の道しるべ、最初に異界へと渡った本当の放浪者、二つの世界を繋ぐもの。


 スフュレリアは思い出す。

 初めて逢った自分の分け身は実に可愛らしい女の子に成長していた。


 彼女は彼を愛している。

 彼もまた彼女を愛している。


 今はまだ不明瞭な家族の絆に過ぎないけれど、きっとまたかの魂は彼女を選ぶだろう。これまでもそうであったように。


 その相手がこの体でないことはスフュレリアとて思うところはある。

 あるがしかし、彼女もまた自分なのである。

 彼女は十分に喜びを感じていた。


 世界を渡り、幾度もの輪廻を超えて、それでもなお彼は彼女を愛してくれた。

 それはまるで奇跡のようで。


 だから彼女は待ち続けたのだ。

 同胞の多くが神の国に去ってなお、勿忘草の原で一人、水面に過去と今を映しながら。


 いま、彼女は幸せであった。


 二人の行く末は分からない。

 分からないがそれを見守りたいと思う。

 それで充分に満たされるのだ。


 スフュレリアの足が、水面を蹴った。

 波紋から飛び出た雫が彼女の天色の髪を濡らす。


 スフュレリアはわけもなく左手を二つの月に翳した。

 寄り添う大月と小月はまるで二つの魂のようである。

 実に嬉しそうに、笑みが浮かんだ。


 彼女の左手には、かつてワイナから贈られたミスリルの腕輪が月の光を受けて優しく光っている。


 



【脚注のようなもの】

花天月地……花が天を埋め尽くすほど美しく咲き誇り、月の光が明るく大地を照らすさま

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