ヴァルネリという男
本日一つ目、もう一つ更新します。
この後は変則的ですが次話の前編を、その続きは明日、という形になります。
ヴァルネリは昨晩から一睡もしていない。
自宅に帰ってくるなり書斎に閉じこもって出てくる様子もないのだ。
心配した妻のイーリスが何度か差し入れを持ってきても一顧だにしなかった。
その顔色は蒼白で、時折思い出したかのように赤く染まるのみである。
脂汗をダラダラと流しながら懊悩する姿は鬼気迫るものであった。
ヴァルネリの家はオーストレームの名家である。
その系譜は最初の王ワイナにも通じており、多くの先祖が里長として名を連ねている。
直近だとヴァルネリの祖父エサイアスがそうであった。
彼は幼い頃からエサイアスは口癖のように、
『よいか、三代続いて里長を連ねたは我が家だけ。我が家なればよ』
そう言い聞かせたものである。
エサイアスはその父イェッセから、イェッセは祖父カーッポから里長を受け継いだことになる。
総じて彼らが優秀であったことは確かである。
しかし父や祖父と比べられるとエサイアスは少しばかり見劣りしたのも事実であった。
従って、エサイアスは息子オルヴォを次代の里長にすべく英才教育を施すことで己が才覚を示そうとしたのである。
ところがその息子は才覚及ばず落選し、エサイアスの悲願は孫であるヴァルネリの双肩に委ねられたのである。
狂気を孕んだ祖父と父にどのような教育を施されたのか、それはヴァルネリしか知らない。
ヴァルネリは同年代と比べても優秀な部類であった。
弓をとっては負けなしの腕前も、知恵の館で学んだ知恵も、深い精霊信仰も比べるものない大人物だと言われた。
唯一の例外を除いて。
彼の不幸は稀代の傑物アルトゥーリと同じ時代に生まれたことである。
ヴァルネリは何をしても彼に敵うことができなかった。
彼の方が三回り以上年下であることが救いであったのかは分からない。
ともかく、武術につけても勉学につけても“かつてのアルトゥーリを除けば”という枕詞の後に褒められて育ったのだ。
(いまの妻とて……)
そう思うたびにヴァルネリの顔が真っ赤に染まり憤怒に表情が歪む。
妻イーリスは彼の初恋であった。
天真爛漫に笑う彼女に一目惚れしたのである。
そのイーリスがアルトゥーリに恋をしていると聞き、実際に自身の目で二人が人目をはばかるように会っているのを見た時、ヴァルネリはまさに胸が張り裂けんばかりに慟哭した。
それにも拘わらずイーリスとの縁談が設けられ、夫婦になれたのは祖父エサイアスの介入があったものとヴァルネリは予想している。
そのことは、彼なりに納得し受け入れているのである。
しかしその祖父も次代の里長がアルトゥーリに決まると憤死した。
死の床で仄暗い恨みの光を宿して天井を睨めつけながら逝ったエサイアスの最期はヴァルネリの脳裏に焼き付いている。
その日から、祖父の悲願はヴァルネリの切望となった。
アルトゥーリのことは仕方ない、ならば次代の里長にはヴァルネリ自身か息子アッツォをと望んだのである。
彼は考えられる限りの英才教育をアッツォに施した。
未だ矍鑠としている里長を鑑みるに自分は間に合わなくとも、成長著しいアッツォならば、と思い定めたのである。
それゆえ、スフュレリアが現れた時にヴァルネリは仰天したのである。
彼にはその光景はかつて学んだ最初の王ワイナの伝承の焼き直しにしか見えなかったのだ。
このままではぽっと出の人間がオーストレームの王になってしまう。
ヴァルネリにとってそれは悪夢に他ならなかった。
あの時の言葉は無論、讒言のつもりなどなかった。
それがまさかに精霊の化身とも言えるスフュレリアの逆鱗に触れるとは思いも寄らなかったのである。
その過激な主義に霞んでいるが、彼は精霊信仰に敬虔である。
だからこそ彼女の怒りはヴァルネリに絶望をもたらした。
いっそあの場で殺されていた方が良かったやもしれない、と呟いたほどである。
それならば彼が憎む人間に命を救われるなどという屈辱までも受けることはなかった、というわけである。
(こうなってはどうしようもない……)
スフュレリアは否定したが、エリアスに残される道はアニム族の王として祭り上げられるか、殺されるまではなくとも里から追い出されるかであるとヴァルネリは思い定めていた。
さすがにヴァルネリも馬鹿ではない。長らく狩人のまとめ役をやっているわけではないのだ。
(いっそのこと……)
という恐ろしい考えが彼の思考を掠めた。
少なくとも人間が王になるなどという悍ましい事態は避けられるのである。
彼の顔色が蒼白を通り越して強張り始めた時である。
書斎の扉を叩く音が響いた。
「あなた、ごめんなさい」
続く甘い声はヴァルネリの妻のものである。
からからに乾いてくっついていた喉を引き剥がすようにしてヴァルネリはどうにか声を絞り出した。
「イーリス、すまないが今は一人に……」
「あの、お客さま、なんです」
「……客、だと。誰だ?」
「里長です」
ヒュッという音がヴァルネリの喉から零れた。
一瞬、己の考えをどうにかして覗き見られたのかという恐怖が彼を苛んだ。
そのあまりにも馬鹿らしい考えを振り払いながらヴァルネリは口を開く。
「分かった。すぐに向かおう」
言いながら立ち上がった彼の身体は随分と凝り固まっていた。
重い体を引きずりながらヴァルネリは歩く。
久しぶりに開いた扉の向こうには驚いた様子のイーリスがいた。
透明感のある白橡色の髪から紅梅色の瞳が覗いている。
その瞳に映るヴァルネリ自身の顔は、幾分やつれて見えた。
「あの、あの、大丈夫ですか」
「……大丈夫だ」
「せめて、なにか召し上がっては」
心配そうに見上げる妻にヴァルネリは思わず微笑みを浮かべた。
久方ぶりに使った表情筋が軋む。
「客人を待たせるわけにもいくまい」
「……分かりました。あの、応接間でお待ちです」
「ああ」
言いながら歩き出したヴァルネリの口から「ありがとう」という言葉が溢れでる。
その声がイーリスに届いたのかどうか、彼は確かめることなく応接間の扉を押し開けた。
立ち上がって出迎えたアルトゥーリの顔に僅かな驚きが見える。
「里長さま、お待たせして申し訳ありませんな」
「いや、さほどのこともないが。……大丈夫か?」
「はて、お見苦しいやもしれませんがご容赦を」
適当な返事と共に椅子をすすめてヴァルネリも腰を下ろした。
実際のところ今にも倒れこみたいような気分なのであるが、それを表に出すのは彼の矜持に反したのである。
「無礼を承知で申し上げますが、里長さまこそお忙しいはずでは」
嫌味な言い方になるのを構わずにヴァルネリはそう告げた。
事実、ヴァルネリに予想できたことがアルトゥーリに予想できないはずもないのだ。わざわざ油を売りに来たと日和見できるわけがない。
いったい何を言うつもりか、彼は内心で戦々恐々としていた。
何事かを言おうとしていた様子のアルトゥーリも一度目を瞑ってから口を開いた。
「お主の考えを否定するつもりはない」
「ほう……。それは結構ですな」
「かつては外で共に戦った身、人間の非道はよく知っている」
「……」
ヴァルネリの目が細まる。
彼の瞼に浮かぶのは随分と昔の情景である。
「少なくともわしもエリアスをアニム族の王にするつもりはない」
そう言ってアルトゥーリは頭を下げた。
目的も思想も相反することを両者はよくよく分かっている。
その上で里長は決して軽くない頭を下げたのである。
ヴェルネリの驚きはこの日最高潮に達していた。
「ヴァルネリ、手を貸してはくれないか」
二人の密談を知るのは他にイーリスただ一人である。
【脚注のようなもの】
讒言……他人を陥れるために、上司にうあることないこと吹き込むこと。
白橡色……橡で染めた白茶色に近い色。橡はどんぐりの古名。
【次回予告】
子供たちのために駆け回る大人たち
一方、エリアスは牧場へと向かっていたが……
次回、エインヘリャル物語『フェロー』
時代おくれの少年剣客が異世界を駆ける!
どうぞよろしく




