帰る場所 前編
本日一つ目、後でもう一つ投稿予定です。
今日のは分割する場所でとても悩んだ……
朝食後、里長の館の裏庭にエリアスの姿があった。
門構えの割に小ぶりなそこは季節折々の草花が無造作に植えられていて、けれど少しも見窄らしくもない。
その只中にポツリと一つ、そこそこな大きさの平たい岩があってこの上でエリアスは正座しているのである。
こと正座という文化がないに等しいこの里においては相当に奇異な光景なのだが、幸いにして咎めるものは誰もいない。
両親は食後慌ただしく出て行き、クリスタはサンテリの様子を見ている。
エリアスは存分に思索に耽ることができたのである。
今朝、エリアスは初めて父の稽古を辞退した。
病気の類やひどい荒天でもなければ休むことがなかっただけに、クリスタなどは顎を落とさんばかりに驚いていた。
それも致し方ない、と彼は考えている。
エリアスは迷っていた。
思考の迷宮をフラフラと歩きまわっていたのである。
その自覚があるだけに彼は稽古を諦めたのである。
これほどに心が乱れている時はしようがない。
それが“橘啓吾”としての経験則であった。
最初、エリアスは硬い床で座禅を組み無心になろうと努力した。
なんの進展もなく朝食の時間になり、心配する母にいたたまれない気持ちになりながらも無理やりに腹にものを詰め込んだ。
そうして今度は更に硬い岩の上で思惟を始めた、というわけである。
エリアスがこの場に来てもう半刻近くが経とうとしている。
けれど、彼の思考はくるくると空回りするばかりであった。
橘啓吾という青年の二十年余りの記憶とエリアスという少年の十年足らずの記憶、そのどちらも鮮烈で作り物とも思えないのだ。
各々の感情も生き様も信条も、すべてが生のそれなのである。
どちらが主なのか、それすら少年には判然としなかった。
気を抜けば恐怖がエリアスの心を射竦める。
自分は紛い物の類ではないのか、両親やクリスタを騙しているのではないか、そういったとりとめのない無数の虞が湧いてくるのである。
少年は荒れ狂う胸懐をどうにか宥めようとしているのだ。
どれほどの時間そうしていたのか、エリアス自身にはどうにも分からない。
ともかく、ふと誰かが近いてくる気配を漠然と感じて彼の意識が浮上しはじめたときには太陽はそれなりに高い所にあった。
ようやくエリアスが目を開けた時にはその来訪者は少年の傍に立っていて、くつくつと小さく笑っていた。
「おやまあ、こんな所に彫像があったなんて知らなかったよ」
聞き覚えのある嗄れ声にエリアスは頬を緩ませると口を開いた。
「ばあちゃんか。どうしたんだ、急に」
「ご挨拶だねえ、わざわざお節介に来たってのに」
少しも気を悪くした様子もなく悪態で返したのはアネルマであった。
変わらない老女にエリアスはあどけない笑みを浮かべた。
実のところ、この偏屈な老婆が割合気に入っているのである。
竹を割ったような性格と趣味の読書を通じた付き合いもあって、仲も良い。
「それはありがたいな」
だから、エリアスは本気でそう答えた。
老獪なアネルマならば、多少なりの光明をもたらしてくれるような気がしたのである。
なにより、一線を引いた他人として話を聞けるこういう人物だからこそ喋れることもあるのだ。
「ひゃっひゃ、ババアの助けが必要とは切羽詰まったかえ」
「わりと、な」
「素直なことは良いことさ。どれ、一つ話を聞かせてみなよ」
そう言って、アネルマは服が汚れるのも気にせずエリアスの側に腰を下ろした。二人の背中が軽く触れ合う。
それはなんとも不思議な光景であった。
どうして彼女がここにいるのかエリアスは問わなかった。
アネルマもまた随分と雰囲気が変わったはずの少年に迫ることなく語るに任せた。
「なんて言えば良いのか。まあ、俺は放浪者なんだと」
「おやまあ、びっくり」
「……その反応は、知ってたな」
「さてねえ」
「ま、早いか遅いかの違いか」
苦笑とともに溜め息を溢しながら、エリアスは言葉を続けた。
「生き字引のばあちゃんには隠せないだろうけど、つまり俺には二つの人格があるらしい」
「らしい、ねえ」
「昨日自覚したばっかりなんだ。勘弁してくれ」
「まあいいさ。それで?」
「この世界に生まれ育った自分と放浪者であるもう一つの自分、そのどっちもがもっともらしくて俺にもはっきりしないんだ。どっちも俺なのか、どちらかがまやかしなのか、それとも……。もう、頭の中がめちゃめちゃなんだよ」
自嘲気味にそう言うエリアスの身体は小さく震えている。
その姿を見てアネルマはしかし莞爾として笑った。
「ひゃっひゃ、若いねえ。ババアなんかは大雑把だからねえ」
「……あのなあ」
エリアスが溜め息を溢した。
「けれどまあ、そういう若さは嫌いじゃない。真摯な生き様は気持ちいしねえ」
「ったく」
エリアスが力の抜けた笑いを浮かべる。
その頭にアネルマは皺だらけの右手を乗せた。
そうして驚いた少年の顔を覗き込んだのである。
「ま、もう気付いてんだろうけどね。そりゃエリィ坊が悩んでも答えが出るようなもんじゃあないだろう?」
「そりゃあ、まあなあ」
「じゃあどうしたらいいと思うんだい?」
「だから訊いてるんじゃないか」
「ひっひ、その相手が間違ってるのさ。今回のことをお膳立てした奴がいるなら、そいつに訊くのが一番だとは思わないかい?」
それを聞いて思わずエリアスはあっと大きな声を挙げていた。
ついつい内省に努めるあまり、誰かが答えを知っている可能性を少年は思いもつかなかったのだ。
都合よく会えそうもない“代行者”はともかく、昨日の一件に深く関わっていたと思われるスフュレリアならば何かを知っているかもしれない。
そうと気付いたエリアスは自然と立ち上がっていた。
少年の思考は豁然として解放されたのである。
【脚注のようなもの】
思惟……心を集中させて考えること。分別すること。思考よりもより深く潜っていく感じがするよね
虞……おそれ。よくないことが起こるのではないか、という心配、懸念。




