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エインヘリャル物語 〜橘啓吾 列伝〜  作者: 真面目 雲水
第一章 転生した剣客
26/61

閑話 追憶の陰

この話は、6/23に後から割り込み投稿した部分になります

そのため前後の話と微妙に文体が違っているかもしれません、あしからず


割り込み投稿の詳細、執筆のこぼれ話は後書きを参照ください


 エリアスは闇の中を落ちていた。

 風景も、まして上も下もない暗闇の中であるから、当然、何がどうなっているのかさえ分からないのだが、どうしてか落ちているのだ。


(……ああ、俺は夢を見ているのか)


 漠然とエリアスは悟った。

 まさしくそれは明晰夢であったのだ。


 夢を夢と知覚し、けれど思い通りになるわけでもなく、ただ拭い去れない違和感がそこにはあった。

 どこがどう、とも彼には説明のしようもないのだが、とにかく違和感だけが彼の心を苛んでいたのである。


 ともあれ、この日エアリスが見たのは、まるで“橘啓吾”の走馬燈とでも言うべきしろもの・・・・であった。


 いったい、どこまで落ちて行くのか。

 半ば不可避の焦りにも似た衝動に襲われながらエリアスが身じろぎを始めたその時、墜落は唐突に終わった。


 意識が外に向くと共に、まるでそれが当たり前のように周りには神戸の街並みが広がっていた。


 一瞬の場面転換。

 夢ならではのご都合に、エリアスは苦笑を浮かべる。


 その夢の中の景色は、まさしく啓吾の記憶に基づくイメージの発露なのか、ひどく不安定でディテールを確かめることさえできない。

 しかし夢自体が、エリアスにそれ・・が神戸なのだと無理矢理に納得させるのである。


 突然だが、橘啓吾が生まれたのは東京の端である。

 しかし物心がつく頃に兵庫県へと移り住んだ彼にとっては、学校のあった西宮や神戸から元町にかけての街並みこそが故郷の風景だったと言える。

 家があったのは阪急電鉄沿線のある駅にほど近い場所であったが、たまの休みに学友や両親と出かけるのは、もっぱら神戸だったのだ。


 東京に比べればこぢんまりとした街ではあったし、今はどうか知らないが、少なくとも彼がいた頃には垢抜けて洗練された飲食店など数えるほどしかなかったものである。


 懐郷の念がふつふつと己の中で湧き上がるのを、エリアスはどこか冷たい心持ちで自省していた。

 まるでこの夢が、自分自身が隠していた恐れそのものを暴きたてようとしているかのように思えたのである。


 それでも、エリアスは辺りを見回さずにはいられなかった。


 風景は、随分と無茶苦茶だとしか言いようもない。

 目の前にあるのはどう見ても三宮の駅に他ならないのだが、首を巡らせば、港側にあるはずのポートタワーがそびえていて、どういう訳か、その奥には遠く離れたはずの西宮の商店街が我が物顔で居座っているのだ。


 幾分か苦味ばしった笑みを浮かべながら、エリアスは左を向いた。


 こちらには、元町商店街の入り口が見える。

 ステンドグラスが堂々と飾られたアーチの下に見える通りは、三宮元町間の高架下商店街に並んで彼にとっては思い出深い場所である。

 自然と、足がそちらへと動き始めていた。


 顔や、下手をすると体全体までもが不明瞭で焦点がぼやけたような人々がエリアスの周りを行き交っていく。

 誰も彼を気にかけず、エリアスもまた、気にすることはない。


 少年の歩みと共に、景色が揺らぎ、移ろう。


 直後、エリアスは一軒の喫茶店の前に立っていた。

 その顔が懐古に歪む。


 なにともなく、少年は振り向いた。

 振り向いて、あまりにも懐かしい父の顔を見つけて、あどけなく笑った。


 いるはずのない肉親が唐突に現れて、けれどそれをそうと受け入れるしかできなかったのである。

 夢が夢であることのもどかしさが、エリアスには辛かった。


 しかして、夢は少年の胸中などおもんばかることなく、ただ進んでいく。


 少年の小さな手に引かれ、苦笑を浮かべながら啓吾の父親は連れ立って喫茶店へと入った。

 その姿を間近で眺めながら、エリアスは落涙していた。

 笑顔で出迎えた店のマスターも、景気よく答える父も、その様子に気づく様子もない。


 エリアスはただ、泣きながら笑ってそれを見ている。


(……当然だ。記憶が、……夢が、そんなに都合がいいはずないんだ)


 確かに、それは啓吾の記憶であった。

 仕事に忙しい父が、たまさかの休みに連れてきてくれたこの喫茶店を彼は忘れていなかった。


 洒落た店構えも、子供には少し苦すぎる珈琲も、背伸びをしたがっていたあの頃の少年にはたいそうな待遇に他ならなかったのである。


(……親父オヤジ


 エリアスは、もどかしさに頭がどうにかなるのではないかと思った。


 それほどに煮えたぎったある種の感情の坩堝の、その中に彼はいた。

 夢越しに会えた喜びと虚しさ、刺激された望郷と愛情、待ち受ける運命を知るがゆえの悲哀と憤怒、今の自分を表す言葉を、彼は不幸にして知らなかったのである。


 いっそ慟哭できればどれほど心地よいか。

 泣き喚いて暴れることができればどれほどましか。

 夢は、何も答えてはくれない。


 にわかに、振り向いて微笑んだ父の姿がぼやけた。

 それが少年の瞳に溢れた熱いもののせいなのか、再び変わりゆく景色のせいなのか、エリアスにはどうとも言えなかった。




 次の景色を見たときに、エリアスはとうとう慟哭していた。

 本能が理性を打ち破り、噴き出した激情の赴くままに少年は叫んでいた。


 彼の前に建っているのは、素朴な一軒家である。


 どこにでもあるようなその家の、通りに面した大きな窓から漏れる明かりはカーテン越しの柔らかなそれで、いつのまにか夕暮れへと変わった風景を優しく照らしている。


 今にも表のドアを開けて誰かが出てくるのではないか、楽観的な考えがエリアスの脳裏を掠め、なんの痛痒つうようも残さずに通り過ぎていった。


(俺がっ! 俺がこの景色を見間違えるものかっ……!!)


 何かに取り憑かれたように、エリアスは走り出していた。


 記憶に違わず・・・・・・、玄関に鍵はかかっていない。

 靴を脱ぐのももどかしく、土足で上がった少年は階段を駆け上がって二階へと急いだ。


 そこで、少年は立ち止まった。


 階段を登りきってすぐの扉が、半開きなのである。

 隙間から見える室内には見知った女物の靴下を履いた足が見えている。


「……」


 何が待ち受けているのか知っていて、それでも少年は扉を押し開けた。


 目前の光景が彼の小さな体をカッと燃え上がらせた。

 怒りが、悲しみが、灼熱となって身を焦がしたのである。


 いつも通りの寝室の中で、一つだけ荒らされたタンスと、その側に倒れている女性だけが異質であった。

 うつ伏せの女性の、その遺体・・の頭部にはひっくり返された衣装ダンスの中身が掛けられていて、顔を見ることはできない。


 だが、それが誰なのか、少年はよくよく知っていた。


 当時、自分が泣いていたのか、喚いていたのか、あるいは助けを求めていたのかは彼には曖昧でなんとも言えない。


 声にならない叫び声を上げながら、それでも少年は部屋を飛び出した。

 向かったのはさらに奥、啓吾の父親が私室として使っていた書斎であった。


 打ち当たるようにして開いた扉の、目の前にどんと居座ったデスクの向こう側、壁にもたれかかるようにして、啓吾の父は絶命していた。

 全身を滅多刺しにされた側には折れた打刀が、父親の手元には抜きかけの脇差が、それぞれ転がっている。


「……あ、あ」


 どちらの刀も啓吾の父が趣味で収集していたものだった。

 祖父の薫陶を受けた一端いっぱしの剣客たる父親がどうして一方的にやられたのか、なぜ隠されていたはずの刀を凶器とされたのか、ついぞ啓吾は知る機会をえなかった。


「ああ、ああああああッッ!!」


 けれど、そんなことはどうでもよかったのである。

 だからこそこの時の周りの風景を少年は詳しく覚えていないし、従って、夢である今も、この部屋は曖昧で不明瞭な景色にしか見えようもない。


 ともかく、この時の少年にとっては階段から登ってくる足音が聞こえたことで全ては手一杯だったのである。

 恐怖、ではない。

 それが憤怒であったかは定かではないが、激情に駆られた啓吾・・は近くにあった脇差を抜き放って駆け出していたのである。


 瞬間、夢の中のエリアスは二重にぼやけて見えた。


 直後に脇差をとって走り出した幼い啓吾の顔には、とても子供とは思えぬ極まったものがあった。

 まさに、般若である。


 けれど、エリアスは動けなかった。

 ただ、ただひたすらに死んだ父の苦悶に歪んだ顔を見つめていたのである。

 その震える手が、熱のない父の顔をゆっくりと撫ぜた。


「……親父」


 夢の中のことである。

 熱などあるわけがないのだが、それが無性に今は怖かったのだ。


「……なあ、親父ぃ」


 なにかに哀願するかのように、エリアスは呟いていた。

 なぜ両親は死ななければならなかったのか、あの時、他に自分はやりようはなかったのか、助けることはできなかったのか。

 頰を伝う涙ばかりが、熱い。


「……なあ。……こたえて、くれよ」


 啓吾が部屋を飛び出してすぐ、通路の方からくぐもった呻き声と叫び声、それから泣き喚く声が聞こえてきた。


 この時のことを忘れるはずもない。

 犯人の顔はいたって平凡な顔で特徴らしい特徴もなかったが、それでも記憶に焼き付いているのである。


 通路の角、出会い頭に突き刺した感触も、驚愕から怒り、そして苦しみと哀願へと変わっていく犯人の姿も一つ残らず覚えているのだ。

 この直後、瀕死の犯人に殴り飛ばされて気を失うまでのことは全て。


 そうして、やはり不可視の衝撃がエリアスを揺さぶった。

 風景が吹き飛び、目前の父もまた消え去る。


 再び闇に包まれながら、エリアスは三度慟哭していた。




 一度途切れた夢は、じきに次の場面へとエリアスを導いた。


 なにがしかの断絶が少年の中にあったのは確かである。

 急速に回復していくエリアス自身、先ほどまでの夢の内容が見る間に色褪せていき、現実感を失っていくのを感じていた。


(……俺は、なにがしたいんだ)


 吐き捨てるような独白は口から出ることこそなかったが、エリアスの顔には呆れとも怒りとも取れる不機嫌な表情が映っている。


 エリアスは見覚えのある市街地の只中に突っ立っていた。

 東京都も西の外れ、八王子市の某所である。

 両親を失った橘啓吾が祖父に引き取られてから暮らした街並みである。


 この街で、少年は祖父の薫陶くんとうを受けたのである。


 いつ頃からこの辺りが八王子と呼ばれるようになったかは定かではない。

 ものの本によると、どうやら戦国時代の後北条氏当主、北条氏康の書簡によるものが確認できる最古の記録のようである。


 この氏康の三男、氏照が深沢ふかざわ山|(現、城山しろやま)に城を築いた際に、この山に祀られていた八王子権現の伝説にあやかって八王子城と名付けたようであるが書簡はそれよりも古い。

 ともあれ、その頃には八王子権現に由来してこの辺りが“八王子”と呼ばれていたのは確かのようである。


 さて、この八王子権現というのは平安時代に建立されている。

 妙行という僧が深沢山の山頂で修行していた折に、牛頭天王が八王子を引き連れて現れたという伝説によると宗関寺そうかんじに残されている。

 しかして、牛頭天王は疫病や害虫、邪気の類を流し払う神として、八王子は吉凶を司る方位神として厚い信仰を受けていたのだ。


 実のところ、エリアスはその手の歴史が嫌いではない。

 であるからして当然この話も見知っていたし、八王子神社に参拝したこともある。


(……もっとも、俺にはご利益もなかったようだが)


 自嘲気味に、エリアスは独りごちた。

 橘啓吾が短い人生を終えたのも、この街であった。


 今、少年の視界に映るのはあまりによく知る景色である。

 半ば何があるのか知りつつもエリアスは後ろを振り向いた。


 閑静な住宅街の一角に、その家はあった。


 古びてこそいるものの手入れの行き届いた日本家屋である。

 時代に取り残された雰囲気こそあるが、大きすぎず、小さすぎずの整った家である。


 エリアスは、この家に来た頃の自分をよく覚えていない。

 ただ、どこまでも包み込んでくれるような祖父、月旦の面影だけが記憶に残っている。

 性根の捻じ曲がったどうしようもない人間にならずに済んだのは、間違いなく月旦のおかげであった。


 ふと、エリアスの耳に月旦の声が聞こえた気がした。


 風景が流れる。


 直後に、エリアスは小さな稽古場の中にいた。

 橘家の古い母屋に併設されたこの場所は、代々受け継がれてきた無名流を象徴する空間である。


 道場というほどのものでもない。

 ただ板の間があって、上座の刀掛台に開祖、橘無雲の佩刀が置かれているだけである。

 それすらも、稽古以外の時は厳重にしまわれていたものだ。


 それでも、当時の少年にとっては静謐荘厳せいひつそうごんな稽古場であった。

 この場所で身一つ、木太刀一つで月旦と形稽古する時、彼はまるでいかめしい神殿の中にでもいるような気分になったものである。


 不意に、エリアスの前に小柄な老人の姿が現れた。


 透明感のある白髪を総髪に引き結んでいる精悍な顔立ちを、エリアスが見間違えるはずもなかった。

 柔和な笑みを浮かべる月旦がそこにいた。


 今度こそ、エリアスは純粋な懐古の笑みを浮かべた。

 先立ってしまったことこそ申し訳ないものの、月旦との別れに悲しみはない。ただひたすらに再会が嬉しかったのである。

 たとえそれが夢であっても。


 しばし、二人は無言で向かい合っていた。


 この時のエリアスの心持ちを言葉で表すことは難しく、それ以上に無粋であった。

 ともあれ、やがて二人は徐ろに頭を下げたのである。


 下がっていた頭が上がると同時に、二人の手にはいつのまにか木太刀が握られていた。

 互いに正眼に構えたその姿は、まるで鏡写しのように対称である。


 形稽古は無音の中で始まった。

 夢の中で、本来聞こえるはずの衣擦れや摺り足の音はどこかへ消えている。

 ただ少年と老人がくるくると舞い続けている。


 この時、エリアスの脳裏には月旦と過ごした日々が通り過ぎていた。

 酒も煙草も包丁も、およそ遊びらしい遊びのほとんどは祖父の元で身につけたものである。

 月旦は剣の師であって、遊興の友であって、心地よい家族であった。


 それでもやはり当時の彼にとっては、木太刀をとって向かい合う時間こそが至福の時間であった。

 胸の奥深くで常に燻っていた熾火のようなエネルギーを、唯ひたすらに没入するかのような感覚が気持ちよかったのである。


 久しぶりに、エリアスはその感覚を味わっていた。


(ああ、ずっと……。願わくば、ずっとこのまま……)


 やがて、型は終わる。

 全てをやり終えた二人は再び向かい合って深々と頭を下げた。

 伏せられたエリアスの瞼から一つ、熱いものが伝っている。


(……ありがとう、爺さん)


 とろけていく風景の中で、エリアスは頭を上げることができなかった。




 ようやくエリアスが頭を上げた時、彼は市街地の真ん中にいた。

 日が落ちた通りには街灯の光が溢れている。

 少年の口からため息が漏れる。


 またぞろ、過去の幻影であった。


 この日のことを、エリアスはよく覚えている。

 人が足りない金曜日のフォローを頼まれて、普段は講義がない時間帯の夕方までのシフトで入っているアルバイトが長引いたのだ。

 月に一度はこういうこともあったし、決まって祖父にも連絡していた。


 なんの変哲も無い日常のはずだったのである。


 仕事場の駅から二駅、乗り換えてさらに四駅、最寄り駅に降りてから数分の帰途を歩いたところだ。

 今、エリアスの目の前に映っているのはその景色である。


(……ああ、ちょうどあの辺りだったか)


 何気なく近寄った街灯の下に、血溜まりがあった。

 ここで彼は刺されたのである。


 思わず、エリアスは瞑目した。


 帰宅途中、駅から歩き始めてすぐに啓吾は殺気を感じていた。

 どこからか自分を狙うものがいることに気づいていたのである。


 従って彼に油断はなかったはずである。

 事実、キャップを深くかぶった男に追跡されていることも分かっていたのだ。


 この街灯の下で、追跡者はとうとう啓吾に向かって突進してきた。

 初撃を危うげなく躱した彼は、しかし相手の顔を見た瞬間に身動きが取れなくなっていた。

 かつて自分が刺したはずの男の顔が、そこにあったのである。


 奇声を発しながら飛び込んでくるその男を啓吾は躱すことができなかった。

 まるで金縛りにあったかのように動けなかったのである。

 それが恐怖か、驚愕か、あるいはもっと他の何かが引き起こしたものであるのは確かであるが、ともあれ橘啓吾の命運はそこで終わったのである。


 吸い込まれる刃の感触、違和感、灼熱、痛み、そういったものを前にしかし、啓吾は何も言わずに目の前の男の顔を見つめることしかできなかったのである。

 自分を刺した男の顔は、まるで般若のようであった。


 ずり落ちるようにして街灯に崩れた啓吾は、走り去っていった襲撃者のその後のことを知るすべもなかった。

 悲鳴と喧騒の中でただ、呆然としていた。


 今から思えば、両親を殺した犯人が生きているはずもなく、たとえ生きていて塀の外にいたとしてもずっと歳をとっていて、その分顔も違っているはずである。

 きっと奴の肉親だったのだろう。


 それでも、当時の自分にとっては死や痛みよりも恐ろしい何かを突きつけられた出来事であったのは確かである。


 物思いから帰ってきたエリアスは徐ろに目を開いた。


 目前の街灯に、一人の青年が背中を預けている。

 がっしりとした体つきに引き結んだ口元、意志の強い両目が印象的なその男を当然エリアスはよく知っている。

 この青年こそ、自分自身、橘啓吾に他ならない。


「お前は、また迷っているのか」


 憮然として啓吾が口を開く。

 エリアスは何も答えられなかった。


「自分が誰か、そんなことも忘れたのか?」

「……そんなわけ、ない」

「逃げても無駄だ。お前は俺だ」

「……っ!」


 反射的に熱を持った体をエリアスは奮い起した。

 啓吾の暗い瞳が、エリアスをめつける。


「いくら自分を否定しても、橘啓吾は幻想にならないぞ」

「エリアスだって、現実だろうが!」


 叫ぶような勢いで詰め寄ったエリアスに、啓吾は何も答えない。

 ただ凝然と見つめ返してくる。


「過去から、逃げ出すな」


 静かに、啓吾の体が揺らいでいく。

 夢の景色そのものが陽炎のように揺らいで消えていく。


「待てっ……!」


 思わず、エリアスは手を伸ばしていた。


「待ってくれっ!」


 夢は、何も答えない。




【脚注のようなもの】

神戸・西宮……ともに兵庫県の市名。なお、西宮は神戸と大阪のちょうど真ん中あたりにある。

神戸元町……神戸市の一画。中華街や商店街で知られている。老舗のケーキ屋、喫茶店、古着屋なども多い。また、高架下の商店街には戦後の闇市の雰囲気が残っておりなんとも言えない情緒がある。

八王子市……東京都と神奈川県の境にある市。JRの駅の北口がよくお天気ニュースに使われる。

後北条氏……北条早雲に連なる一族。関東一円に幅を利かせた。

北条氏康……早雲の孫。川越城の戦いはつとに有名。相模から北へと進出し領土を広げた。武田信玄や上杉謙信ともやりあっている。

北条氏照……氏康の三男。八王子城を築いて武田勢からの侵攻に備えた。なお、氏照の名を冠した日本酒がある。


【執筆こぼれ話】

ご愛顧いただいている皆様への感謝と、今回の割り込み投稿についてを少しだけ……

実はこの回は、拙作を投稿し始める頃の原稿には既に存在していた話です


しかしながらあまり暗すぎる話である点や、前後の世界観との違和感などから一度はお蔵入りした箇所でした

ですが、橘啓吾やエリアスというキャラクターの根幹をなす部分であること、また自己同一性アイデンティティの揺らぎに苦しんでいる場面であることを踏まえた上で、やはりどうしてもこの話は必要なのではないかと考え始めました


再掲を決めたのが先週の頭くらいでしたでしょうか

そこから何度も手直しを加え、悩みに悩み抜いてこの話を書き直したのです

かなり難産でしたし、これで完全かと言われれば悩むところではあります

しかしながら今回光が当てられた橘啓吾という人間の暗い部分は、これからも拙作の重要なファクターとして機能することを踏まえて掲載に踏み切りました


どうかこれからも、悩み続ける彼らへのご愛顧を伏して願う限りです


なお、次回分の投稿は来週になるかと思いますが、今回分の投稿が遅くなったので少し早めに投稿できればと考えています

どうぞよろしく

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