第九章:夜の衛生サック、怒りの無言ビンタ
「……ねえ、宮本くん。……私、どうしても寝付けないんだけど」
携帯天幕の隙間から差し込む、照明弾の無機質な白い光のなか、塚原志保は軍用毛布を強く抱きしめ、狭い蛸壺の底でぽつりと声を漏らした。
晶三は、三八式歩兵銃を膝に抱えたまま、泥まみれの顔を大真面目に向けて頷いた。
「……そうですよね。確かに夜なのに、いきなり昼間の様に急に明るくなったり、グラマンの音がしたりすると、神経が昂ぶって眠れなくなりますよね」
「――違うって、バカ。……穴の中に、男と二人きりだからだよ!」
志保は思わず、暗闇のなかで顔を真っ赤にして声を尖らせた。
「宮本くん、わかっていると思うけど……私、女の子なんだよ? わかってる?」
「はい。……勿論、わかっていますよ」
晶三はキョトンとした目のまま、素朴に答えた。そのあまりにも緊張感のない態度に、志保はバックパックを胸の前に強く押し当てながら、心の中で激しく毒突いた。
(――ちょっと、こいつ少し足りないのかしら!? 二十五歳の独身女性と、二十歳の健康な男子が、こんな汗臭い密室の穴の中でゼロ距離で密着してるのよ!? 宮本くん、少しは考えてよ、この状況を……っ!!)
「へ……?」
志保の張り詰めた剣幕に、お荷物補充兵の晶三は、その坊主頭の奥で必死に考えを巡らせ始めた。この綺麗な天女のような志保さんが、一体自分に何を求めているのか。軍隊の要領は悪いが、目の前の人間(志保)の言葉を、彼は文字通りに、極限まで大真面目に受け止めようとしていた。
そして――晶三の不器用な脳味噌が、最悪の方向へ過集中を起こした。
「……志保さん、本当にすいません……っ!」
晶三は、急に真っ赤になって慌てた声を絞り出した。
「……じ、自分、家が貧乏で、すぐに召集されて戦地に送られたので、遊郭にも、ラバウルやラエの慰安所やらにも、一度も行ったことがないんです……! だから、そういう大人の作法がよく分からなくて……っ」
「は、はぁ!? 何をいきなり言い出すのよ!?」志保は目を限界まで丸くした。
「でも! 前に内地(日本海軍の基地や陸軍の班)にいる時に、軍医殿から兵隊全員に一律で配布された物があります! それを使えば……いいんですよね?」
晶三は、必死の形使で肩の雑嚢のボタンを外すと、その泥だらけの指先で、中から何か二つの小さな支給品を引っ張り出し、志保の目の前へと大真面目に差し出した。
照明弾の怪しい白光に照らされたのは、小さな薄汚れたチューブ入りの防性病軟膏(星秘膏)と、独特のゴム臭を放つ、大日本帝国陸軍支給の衛生サック(俗名突撃一番・コンドーム)だった。
「「「…………っっっ!!!!!!!!」」」
志保の脳内で、現代の全メモリーが一瞬にして消し飛んだ。
頭のてっぺんから耳の裏、首筋に至るまで、全身の血が逆流するほどの猛烈な熱さが走り、顔面が真っ赤(大赤面)に染まり上がった。
(――ちょっとおおおっっ!! いきなりこんな、ガチの避妊具(衛生サック)を真顔で出すバカな奴がこの世にいるかーーーッッ!!! 何考えてんのよこの補充兵っ!!)
だが、晶三の暴走はこれだけで終わらなかった。彼はその衛生サックを不思議そうに見つめ、泥まみれの顔のまま、ふっと無邪気に、純粋に笑ったのだ。
「……でも、僕にはこれの使い方も、本当の意味もよくわからないんです。志保さんは大人の知識人だから知っていますか? 知っていたら、僕に教えて下さい!」
晶三のその言葉、そして1ミリの悪気も嫌らしさもない、彼の特性ゆえの究極の天然ボケ。
パァァァァァァァァンッッッッ!!!!!
次の瞬間、静まり返った蛸壺の底に、乾いた凄まじい破裂音が鳴り響いた。
志保は、気づいた時には無意識のうちに、右腕を全力で振り抜き、晶三の泥まみれの頬へと、強烈な無言のビンタを叩き込んでいた。
「ぶっっ!?」
晶三は目をパチパチさせながら、叩かれた頬を押さえて泥壁へと吹っ飛んだ。天女様からなぜ殴られたのか、彼の素朴な脳内では完全に理解の範疇を超えていた。
志保は、右手のひらのジンジンとする痛みを抱えながら、毛布の中に顔を埋め、怒りを通り越した深い絶望のなかで、心からの虚無の溜め息を吐き出した。
(――はぁ……。昔の日本人の男って、ここまで配慮のないバカ(天然)なのかしら……。信じられない、本当に気が遠くなるわ……っ!!)
夜天をコンスタントに焦がす照明弾の怪しい白光の下、お洒落な札幌OLの乙女心は、お荷物補充兵の規格外のデリカシーのなさに木っ端微塵に粉砕され、二人のカオスすぎる蛸壺の夜は、激しい赤面と呆れ果てた静寂のなかで、どこまでも、どこまでも更けていくのだった。
(第十話へ続く)




