↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

10/10

最終章:天女の命令、五稜郭への転進

宮本晶三(みやもと しょうぞう)補充兵は、九〇式鉄帽の庇の奥で、じっと自らの内面に沸き起こる複雑な感情を堪えていた。

昭和十八年末の動員令による入営(入隊)以来、晶三の毎日は、古参兵たちからの容赦ないビンタと怒鳴り声の嵐だった。手先の不器用さと要領の悪さゆえに、軍服のわずかな乱れ、三八式歩兵銃の遊底の手入れの遅れなど、ありとあらゆる細かいアラを探されては「全部隊の恥さらし!」と毎日のように私的制裁の標的にされてきた。特に内務班の班長である鬼軍曹の鉄拳制裁は最悪で、晶三の精神は戦場に来る前からノイローゼ寸前まで削り取られていたのだ。

だが――先ほど、隣にいる札幌OL・塚原志保(つかはら しほ)から喰らった無言のビンタは、それら戦場の野蛮な鉄拳のどれよりも強烈で、文字通り視界の端からバチバチッと火花が出るほどだった。

衛生サックを突き出したことへの、現代女子の烈火のごとき羞恥の鉄拳。

だが、言いたいことをすべて言い尽くしたのか、志保は軍用毛布をきつく抱きしめたまま、タコツボの底でいつの間にかスースーと静かな寝息を立て始めていた。

晶三は赤く腫れた自分の頬を不器用な手で押さえながら、ぽつりと坊主頭を掻いた。

(……結局、女性の気持ちというものは、自分にはさっぱりわからなかったな。……もう少し、函館の学校で真面目に勉強しておけばよかったな……)

◇

翌朝。不気味なほど鮮やかなマリアナの朝日が、携帯天幕の隙間からタコツボの底へと眩しく差し込んできた。

「……ん……っ。……宮本くん? まさかあなた、ずっと起きてたの?」

志保が目をこすりながら身を起こすと、晶三は三八式歩兵銃を抱えたまま、昨日と変わらぬ直立不動の姿勢のまま素朴に微笑んだ。

「自分は、内務班でも夜間の歩哨(見張り)に立たされることが人一倍多かったので、一晩中起きていることくらい、身体が慣れていますから」

その時、朝靄(あさもや)を切り裂くように、再び沖合からの凄まじい米軍の14インチ艦砲射撃の地鳴りがズシン、ズシンと大地を揺らし始めた。

「……奴らは、本当に時間に正確に動くようです。朝飯のあとの、いつもの艦砲射撃だ……」

晶三は淡々と銃を握り直す。それを見つめる志保の胸の奥に、ある熱い感情がふつふつと湧き上がってきた。

(……きっと、この宮本くんという男の子は、あまりにも世間知らずで、よく言えば1ミリの穢れもない『無垢な男』なんだわ。こんな理不尽な地獄の戦場で、軍隊の生贄みたいにして犬死にさせてしまうなんて……そんなの、あんまりにも気の毒すぎる……!!)

恋愛は苦手。だけど、土方歳三のような無骨な漢の仁義を誰よりも愛する志保のOLの理性が、ここに完全なる「覚悟」へと変わった。志保は晶三の泥まみれの肩をガシッと掴み、真剣な眼光をその瞳へと突き刺した。

「宮本くん、落ち着いて、よく私の話を聞いて。――私の『天女の国』ではね、この日本よりも、少しだけ時間が経つのが早いの。だから、私はこの後の、すべての『日本史の流れ(未来)』を完璧に知っているのよ」

「え……?」晶三が目をぱちぱちとさせる。

「こんな、大本営の上層部に見捨てられた地獄の戦場で、玉砕だなんて言って死ぬの、バカらしくない!? いい? あなたが生きていれば、お母さんが首を長くして待っている、あの土方歳三の聖地――函館の港に、もう少しで絶対に帰れるのよ!!」

晶三は、その天女のあまりにも唐突で、あまりにも規格外の予言に、ただただ唖然(あぜん)とするしかなかった。

「そ……そうなんですか……? でも、部隊からはぐれた僕は、これからどうしたらいいですか……っ?」

その瞬間、頭上を米海兵隊のグラマン(F6Fヘルキャット)戦闘機の編隊が超低空で通過し、バリバリバリバリバーーーンッッ!!と凄まじい重機関銃の機銃掃射の爆音をジャングルに炸裂させた。木の葉が飛び散り、爆音で晶三の声がかき消されそうになる。

志保は、その爆音を力強い怒号でぶち破るように、晶三の耳元で絶叫した!

「いい!? ――今すぐ、武器を捨てて、アメリカ軍に『投降(捕虜)』しなさい!!!」

「と、投降……ッッ!?!?」

晶三は、我が耳を疑い、完全に呆然とした。

「そ、そんなことをしたら……陸軍の『戦陣訓』はどうなるのですか!? 僕は、お国を裏切った『国賊』になってしまう……! 函館に残してきた僕の家族は、村八分にされて、故郷の海でイカ釣り船に乗ることもできなくなってしまう……っ!」

捕虜になるという、当時の日本兵にとって死よりも恐ろしい社会的破滅の恐怖。晶三の身体はガタガタと激しく震え始め、九〇式鉄帽の奥の坊主頭から、冷や汗と混ざり合った汗がボタボタと泥の上へ滴り落ちた。

「大丈夫! 私が保証するわ! きっと、生きていれば絶対に生命は助かるし、未来の日本は誰もそんなことであなたを責めない!」

志保が必死に叫ぶ。だが、晶三は涙目で首を振った。

「だ、駄目です! 投降する前に、もし生き残っている古参兵たちや、上官に見つかったら、その場で僕、国賊として銃殺(殺される)されてしまいます……っ!」

陸軍の絶対的な狂気の呪縛。

凸凹バディの命の議論が極限に達した、まさに次の瞬間だった。

ゴトゴトゴトゴトゴトゴト……シュウウウウウウウッッッッ!!!!!

ジャングルの低木を暴力的に踏みつぶし、凄まじい地鳴りと黒煙を上げながら、二人のタコツボ陣地のすぐ目の前へと、その「鋼鉄の怪物」が姿を現した。

米海兵隊の最悪の秘密兵器――M4シャーマン火炎放射戦車『サタン』。

主砲の砲身から、数千度のナパームの業火をドス黒く滴らせ、周囲に無数の米海兵隊の歩兵を従えて前進してくるその圧倒的な質量と殺戮のビジュアル。晶三は、人生で初めて目にする本物の米軍重戦車の異形を前にして、ガタガタと膝頭(ひざがしら)が激しく震え、銃を握る指先が完全に凍りついた。

「宮本くん、迷ってる暇はないわ! 早く投降しなさい! ――これは、天女様(わたし)の命令です!!」

「しかし……しかし、軍人たるもの、上官の命令がなければ……っ」

晶三は、涙を流しながら、なおもカチカチの軍紀の壁を越えられずにいた。

その、生真面目すぎて壊れそうな晶三のド根性を見つめ、塚原志保は、タコツボの底で喉が張り裂けんばかりの、人生最大の「嘘(大音声)」をジャングル一帯へと怒鳴り散らした!!

「――よく聞きなさい、宮本補充兵ッッ!!! 『上官の命令、すなわち朕(天皇)の命令と思え』!!! ――これが、大日本帝国陸軍の絶対の規律でしょうッッ!?!?」

「「「…………っっっ!!!!!!!!」」」

その、軍人勅諭の神聖な言葉を、現代女子から最も尊い怒号として叩きつけられた瞬間。

晶三の脳内で、彼を縛り付けていたすべての私的制裁の恐怖と、戦陣訓の呪縛の鎖が、パチパチパチッと音を立てて木っ端微塵に粉砕された。天女の言葉が、彼の不器用な過集中を、最後に生き延びるための「真の武士道(規律)」へと導いたのだ。

晶三は泥まみれの顔にボロボロと涙を流しながら、九〇式鉄帽の庇に手を当て、志保に向けて生涯で最も美しい、正しい直立不動の敬礼をピシッと捧げた。

「……はっ!!! ――ただいまより、自分は、米軍への投降任務へと邁進いたしますッッ!!!」

志保の泥だらけの顔に、これまでにないほど優しく、最高に美しいお姉さんの「笑顔」がパッと咲いた。

「うん……! よく言ったわ、宮本くん。……武器をすべてそこに捨てて、両腕を高く挙げて、ゆっくり、ゆっくり進むのよ。……ありがとう。さようなら、海の男」

「志保さん……天女様……! ありがとうございました……っ!!」

晶三は三八式歩兵銃と雑嚢を泥の中に静かに置くと、携帯天幕を跳ね除け、サタン戦車が迫る爆煙の向こうへと、両手を高く挙げながらゆっくり、一歩ずつ力強く進んでいった。

その、晶三の小さくて、だけど最高に格好いい後ろ姿を見送りながら、志保はタコツボの泥の底に崩れ落ち、両手で顔を覆って、声を上げて激しく嗚咽(おえつ)した。

「うっ……うあわあああああんっっ!! 晶三くん、晶三くん……っっ!!」

大卒OLのプライドも、お洒落なシャンパンの記憶もぜんぶ吹き飛んでいた。ただ、一人の函館の優しい少年兵を地獄に残して、自分だけが安全な未来(現代)へ逃げることへの、狂おしいほどの悲しみの涙。彼女の流した大量の涙が、テニアン島の珊瑚礁の冷たい穴の地面を、じっとりと激しく濡らしていく。

「ひぐっ……、う、うう……っ」

志保は、握り締めていた現代のハンカチで泥と涙まみれの顔を必死に拭い、晶三の去ったマリアナの空を最後に見届けようと、勢いよく顔を上げた――。

その、まさに次の瞬間のことだった。

「……あれ?」

視界を遮っていた激しい硝煙の臭いと、湿度100%の凶悪な熱気が、一瞬にして消え去っていた。

鼻腔を満たしているのは、火薬の臭いなどではなく、香ばしい生ラム肉の脂と、炭火のどこか懐かしい匂い。

耳の奥を揺らすのは、14インチ艦砲射撃の地鳴りではなく、サラサラと心地よく流れる豊平川の、豊かな「川のせせらぎ」の音だった。

志保は、お気に入りのゴアテックスのトレッキングシューズのつま先を、自分のテントの張り綱(ロープ)に完璧に引っ掛けた、あの無様な「ヘッドスライディング」の格好のまま、夏の定山渓キャンプ場の、満天の星空の下の地面を、呆然と見つめていた。

手元には、パキッと半分に割れたままの、まだ冷たい板チョコレート。

液晶の白いG-SHOCKは、一分(いちぶ)の狂いもなく、彼女がトイレに向かおうとした「現代の深夜の時間」を静かに刻み続けていた。

「宮本……くん……?」

志保は、涙の乾ききっていない目で周囲を見回したが、そこには愛車のジムニーと、ランタンの優しい琥珀色の光が静かに佇んでいるだけだった。夢か、幻か、あるいは本当に一瞬だけマリアナの地獄をサバイバルしたのか。

志保は、地面の楓の落ち葉を器用な手付きでそっと拾い上げると、あの土方歳三が最期を遂げた函館の空の向こうで、今もきっと、自分の教えた「現代のキャンプの知恵」と「朕の命令」を胸に、しぶとく生き抜いて復員を果たしたであろう一人の不器用な少年兵の笑顔を思い浮かべ、満天の星空のなかで、静かに、優しく微笑むのだった。


(『テニアン島のブッシュクラフト 〜土方歳三オタクの札幌OL、現代のキャンプ知識(マイギア)で乙種合格のお荷物補充兵を救う〜』 ―― 完結)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。