第八章:甘い涙のチョコレート、小便の規制
「……これ、チョコレートよ。食べてみて」
照明弾の怪しい白光が揺れる蛸壺の底で、塚原志保はパキッと割った茶色い塊を、宮本晶三の泥に汚れた手のひらの上へとそっと載せた。
晶三はそれを不思議そうに見つめ、おそるおそる口の中へと運んだ。
じわりと、舌の上で濃厚に溶け出す現代の甘味。
「…………っ」
次の瞬間、久しぶりの甘い濃厚な味が極限の五臓六腑へと染み渡り、晶三の目から一筋の涙が静かに溢れ出して、泥まみれの頬を伝った。テニアン島に補充兵として動員されて以来、キャラメルも、故郷の函館で食べた牡丹餅も久しく口に入れていなかったのだ。
これまでの古参兵からの理不尽なビンタや、お荷物と罵られてジャングルに置き去りにされた孤独。晶三にとって初めてのチョコレートは、温かくて、少しだけ切ない甘い涙の味がした。
晶三は続いて、志保から手渡されたスティック状の不思議な機械――電子タバコを口に咥え、おそるおそる吸い込んでみた。
灰が落ちず、マッチの火もいらない現代のタバコ。はじめは煙が出ないその違和感に戸惑った晶三だったが、吐き出したほのかなメンソールの蒸気と共に、張り詰めていた神経がすうっと解きほぐされ、まるで地獄の底から生き返ったような気がした。
そんな晶三の横顔を見つめながら、志保は毛布を強く抱きしめ、心の中で深く葛藤していた。
(この数日後、テニアン島は完全に壊滅して、日本は戦争に負ける……。今後の日本の歴史(敗戦の史実)を、いま彼に言うべきなのかな……。でも、そんなことを言ったら、この子の生きようとする未来を、私が残酷に壊してしまうのではないかしら……)
恋愛は苦手だが、司馬遼太郎の歴史書を愛する志保だからこその、歴史の非情さと晶三の命を想う深い苦悩。
そんな至高のシリアスな余韻のなか、晶三がおもむろに「……ちょっと失礼します」と携帯天幕をくぐって、蛸壺の穴を出て行った。
数分後、何事もなかったかのようにのそりと戻ってきた晶三に、志保は首をかしげた。
「え? 宮本くん、どこ行ってたの?」
「……あ、すいません。小便です」
晶三は、坊主頭をポリポリと掻きながら大真面目に答えた。
それを聞いた志保は、暗闇の中でふっと深い溜め息を漏らし、現代女子としてのリアルな本音をぽつりと溢した。
「……はぁ。いいよね、男の人は。こんな戦場のど真ん中でも、どこでも自由におしっこが出来て羨ましいわ」
「えっ⁉️」
その瞬間、晶三は目を限界まで丸くして、ひっくり返るほど驚愕した。
「……し、志保さん。女の人は、大日本帝国の軍紀か何かで、小便の場所に『規制(法律)』があるのですか……っ!? 自由に用を足してはいけない国なのですか!?」
「「「…………」」」
デリカシーがないというよりも、女の人の体の仕組みや、現代のプライバシーの概念を文字通りにしか解釈できず、本気で「女性には小便の規制がある」と勘違いして大真面目に戦慄している二十歳の少年兵。
志保は暗闇のなかで、完全に開いた口が塞がらなくなり、ただただ白目を剥きそうになりながら、心の中で最大級の虚無ツッコミを炸裂させた。
(――ちょっと、こいつは一体どこまでバカ(天然)なのかしら、信じられないわーーーッッ!!!)
夜天に打ち上がる照明弾の無機質な光の下、敗戦のシリアスな葛藤はどこへやら、あまりのデリカシーのなさと常識のギャップに、札幌OLの志保は完全に呆れ果てて、蛸壺の底でただただ唖然とするしかなかった。
(第九話へ続く)




