第四話:九〇式鉄帽の汗、ソロキャンパーの絶望
(……嘘、嘘でしょ……っ!?)
直径一メートル強の泥の穴――晶三が必死に円匙で広げた蛸壺の底で、塚原志保は両手で頭を抱え、学生時代の日本史の授業を必死になって脳の奥底から手繰り寄せていた。
だが、元より戦国時代の武将や新選組、特に土方歳三の生き様にしか興味のなかった志保にとって、近代の太平洋戦争の史実など、教科書の端に載っていた程度のろくな記憶しか残っていなかった。
(テニアン島……テニアン島って、確か……広島と長崎に原爆を運んだ、あの大きな飛行機が飛び立った島じゃなかったっけ……!?)
彼女の脳内にあるのは、その程度の、未来の残酷な歴史の断片知識だけだった。目の前にいる泥まみれの少年兵が、このあと数日後にどれほど凄惨な運命に巻き込まれていくのか、その詳細なタイムラインまでは悲しいかな、全く思い出せなかった。
「……ふぅ。……志保さん、少しは、広くなりましたか?」
不意に頭上から掠れた声がして、志保はハッと我に返った。
隣にしゃがみ込んだ宮本晶三補充兵は、頭を締め付けていた重い九〇式鉄帽を不器用な手付きで脱ぐと、泥を吸った緑色の布袋で覆われたそれを、足元の三八式歩兵銃の横へと静かに置いた。
晶三は、肩から斜めに下げたキャンバス地の雑嚢のボタンを外し、中からクタクタに使い古された薄汚れた手拭いを取り出すと、汗と泥でギラギラと光る自分の青白い坊主頭を、ゴシゴシと大真面目な顔で拭った。
熱帯の凶悪な熱気が、晶三の擦り切れた九八式軍衣から、生々しい男の汗と泥の臭いを強烈に蒸発させている。
「これなら、二人でもなんとか横になれますね。……グラマンの掃射をしのいだら、次は、スコールや敵の砲弾を防ぐための『屋根』を、木の枝と天幕で作らないといけないですね?」
(――は? 嘘でしょ……?)
晶三の言葉を聞いた瞬間、志保の顔面からサーッと血の気が引いた。
(ちょっと待って……私、これからこの戦場のジャングルの真ん中で、この汗臭くて泥まみれの小汚い男の子と、二人きりでこの泥の穴の中で暮らすわけ!? ――いやいや、これ、現代基準だったら、完全なる『軽いスメハラ(精神的・環境的ハラスメント)』じゃん……!!)
札幌のお洒落なオフィスで、清潔なエアコンの風に吹かれて働いていた志保にとって、この密室の泥の臭いと男臭さは、米軍の艦砲射撃とはまた違うベクトルで、脳のメモリーを限界まで狂わせる精神的拷問だった。
志保はバックパックを胸の前に盾のように抱え込み、引き攣った笑顔を晶三に向けた。
「ね、ねえ、宮本くん。……あなた、私とずっとここに『住む』気じゃないよね……?」
「うーむ。……今の、部隊が全滅しかけて僕が取り残された状況から、合理的に判断すると……そうなりますね。敵が来ない限りは、ここが僕たちの家です」
晶三は、素朴な目で、ふっと嬉しそうに(天女が隣にいる安心感からか)無邪気な笑みを浮かべた。
「お、家って……っ」
激しい艦砲射撃の地鳴りと、グラマンの不気味な金属音が相変わらず遠くで轟く中、塚原志保は、この不器用すぎる補充兵との「過酷で汗臭い共同野営生活」のビジョンが脳裏にフラッシュバックし、あまりの常識のギャップに、蛸壺の底で完全に気が遠くなった。
(第五話へ続く)




