第三話:蛸壺の中の聖地
「――ちょっと待って。冗談でしょ……? この狭い穴に入るわけ!? 汗臭くて汚いこいつと……っ!? 信じられない!」
グラマンF6Fヘルキャットの12.7mm重機関銃弾が、すぐ頭上のヤシの幹をバリバリバリッと生々しく引き裂き、本物の火薬のキナ臭い硝煙が吹きすさぶ中、塚原志保は、目の前の泥の穴(蛸壺陣地)を前にして思わず本音の悲鳴を上げた。几帳面で清潔な大卒OLにとって、泥まみれの小汚い男と密着するなど、現代の日常では天地がひっくり返ってもあり得ない屈辱だった。
「四の五の言ってる場合じゃない! 早くしないと、本当にグラマンに切り刻まれて死んじゃうよっ!」
錆びた三八式歩兵銃を抱えた補充兵、宮本晶三は、いつになく必死の形相で叫ぶと、大型のバックパックを背負った志保の手をなかば強引に泥の穴へと引きずり込んだ。
「きゃっ!? ……痛っ、やっぱり狭いな、ここ!」
直径1メートルにも満たない、ただ地面を丸く掘っただけの粗末なタコツボの底。お洒落なアウトドアウェアを着た志保と、完全軍装の晶三が、互いの息遣い(汗臭さ)が届くほどの距離でギュウギュウ詰めに密着する。
その狭さに志保が顔を歪めた瞬間、晶三の動きが、それまでのオロオロとしたお荷物補充兵のものから完全に一変した。
晶三は、背嚢から使い古された円匙(えんぴ:ショベル)を不器用な手付きで引き抜くと、這いつくばるような姿勢で、凄まじい勢いで蛸壺の壁の泥をガシガシと掘り広げ始めたのだ。
軍隊の臨機応変な規律やマルチタスクをやらせれば「部隊のお荷物」と罵られてビンタばかりされていた晶三だったが、一つの作業(土を掘る手仕事)に没頭した瞬間の「驚異的な過集中(集中力)」は、甲種合格のエリート兵すらも遥かに凌駕していた。一目散に円匙を動かす彼の横顔には、どこか冷徹なまでの職人の凄みが宿っていた。
晶三が必死に穴を広げる横で、志保は自分の左腕を走る不穏な違和感にハッとして、視線を落とした。
泥を被った、お気に入りの白いG-SHOCKのタフな液晶画面。
(ってか、何これ……。確かさっきまで定山渓の『夜』だったのに、なんで今はこんなにギラギラした『昼間』なの……!?)
液晶に表示された現代の時間と、頭上から降り注ぐ熱帯の烈日。そのあまりの時間の歪みに志保の脳みそが完全にエラーを起こしかけていると、円匙の手を休めた晶三が、包帯の隙間……ではなく、泥まみれの顔の奥の純粋な目を丸くして、その白いG-SHOCKの文字盤を覗き込んできた。
「……凄い腕時計だ。……かっこいいな……。天女様の国の道具ですか……?」
「天女って何よ……。私は札幌の会社員。塚原志保。あなたは……?」
志保はパニックを必死に抑え込み、大卒OLとしての几帳面な理性を取り戻すように、狭い穴の底で互いの自己紹介を交わした。
「……自分は、歩兵第135連隊の補充兵……宮本晶三、二十歳です。……あの、北海道の函館のイカ漁師の倅なんです……」
晶三は、米軍の奇襲上陸の大混乱で足が遅いため部隊の撤退に遅れ、ジャングルに完全に取り残されてしまったという、悲惨な現状を涙目でポロポロと打ち明けた。
「昭和十九年、七月二十四日……。マリアナ諸島の、テニアン島北部……っ」
晶三の言葉、そして彼の着ている擦り切れた大日本帝国陸軍の軍服と、目の前にある本物の三八式歩兵銃の鉄の冷たさ。
志保の脳内で、大好きな司馬遼太郎の歴史書で培った知識(ガチの史実のタイムライン)が、パチパチパチッと音を立てて一本の線に繋がった。
ここがサバゲーのイベント会場などではなく、米海兵隊が奇襲上陸し、数日後に日本軍守備隊が全滅(玉砕)へと突き進んでいく、本物のマリアナ戦線の生き地獄であるという現在置かれている最悪の状況を、志保は正確につかみ、その血の気が引いた顔のまま、蛸壺の底で完全に絶望した。
――だが、その絶望のド真ん中で、志保の土方歳三オタクとしての脳味噌が、晶三の放ったある一つの単語を契機に、別の意味でキラーーーーン!と過集中モードの大爆発を起こした。
「……ちょっと待って。あなた……今、何て言った? 『函館』……? 五稜郭のある函館って言ったのッ!?!?」
「は、はい……? 函館ですけど……」
突然、絶望の表情から目を皿のように見開いて自分の両肩をガシッと掴んできた志保の剣幕に、お荷物補充兵の晶三は、ただただ目をぱちぱちとさせて唖然と立ち尽くすしかなかった。
(第四話へ続く)




