第二話:ハンターさんと、ぬるいミネラルウォーター
ヘッドスライディングの勢いのまま珊瑚礁の赤土へ顔面から突っ込んだ塚原志保は、泥まみれになりながら何とか上体を起こした。
「痛たた……。すいません、ハンターさん。私、自分のテントのロープに引っかかって、足を挫いてしまったみたいで……」
志保は、草むらをかき分けて目の前に現れた、九〇式鉄帽を被り泥まみれの服を着たその男に向かって、大卒OLらしい丁寧な口調でペコリと頭を下げた。
だが、その瞬間に彼女の額からどっと大粒の汗が噴き出した。いや、それは転倒の冷えから来る汗ではなかった。周囲の空気が、あまりにも異常だった。
「……っ、なんという暑さだ……。これ、まるでサウナに入った気分なんですけど……」
じっとりと衣服の内側にへばりつく、湿度100%の凶悪な熱気。
そんな志保の姿を、錆びた三八式歩兵銃を抱えた補充兵、宮本晶三は、完全に口をあんぐりと開けて唖然として見つめていた。
(なんで……なんでこんな、艦砲射撃の飛び交う生き地獄の戦場に、見たこともない変わったお洒落な洋服を着た、現代の女の子がポツンと突っ立っているんだ……!?)
軍隊の縦社会では「お荷物」と罵られてパニックになりがちだった晶三の頭が、あまりの非現実的な光景に激しくショートしかけていた。そんな晶三の困惑を余計に、志保は愛用のバックパックを背負い直しながら、几帳面にハンカチを取り出して額の汗を拭い、呑気に問いかけてきた。
「あの……もしかして、ヒグマのパトロールですか? 最近、定山渓もヒグマの出没情報が多いですもんね」
「ヒ、ヒグマ……?」
晶三は引き攣った声を漏らした。何を言っているんだ、この天女のようなお嬢さんは。ここは羆の棲む北の大地などではなく、遥か南洋の、今まさに米海兵隊が奇襲上陸を敢行したマリアナ諸島・テニアン島の激戦地なのだ。
「あ、それより、すいません……。喉が焼けそうにカラカラなんです。お水、どこかに売って……いや、持っていらっしゃいますか?」
志保が必死の形相で懇願する。晶三は根の優しい男だった。彼は、以前古参の下士官から「栓を閉め忘れて水をブチまけた!」とビンタされたアルミ製の昭5式水筒を、おそるおそる彼女の手元へと差し出した。
「あ、ありがとうございます!」
志保はそれをひったくるように受け取ると、几帳面な口元を開けて、水筒の水を一気に喉へと流し込んだ。
ぶふーーーーーーーーーーーッッッッッ!!!!!!!!
次の瞬間、志保は凄まじい勢いでその水をジャングルの泥の上へと、盛大にブッ吐き出した。激しく咳き込みながら、水筒の口を睨みつける。
「な、何これっ!? こんなぬるくて、ドロドロしてて、生臭くてまずいミネラルウォーター、人生で初めて飲んだんだけど……っ! 泥水じゃん!」
「あ、あーーーっ!! 貴重な、僕の貴重なお水がぁっ!」
晶三は、泥の上に吸い込まれていく水を見て、坊主頭振り乱して焦り狂った。川が1本もないテニアン島において、水筒の泥水すら命綱なのだ。「あ、あ、またスコールが来るまで、じっと待つしかないか……」と、晶三は函館の漁師の倅としての、天候を先読みする野生の図太さでボソッと呟いた。
その時だった。
ドババババババババババババババババーーーーンッッッッ!!!!!!!
ジャングルの天蓋を揺るがすように、低空を旋回する米軍のグラマン(F6Fヘルキャット)戦闘機から、猛烈な12.7mm重機関銃の機銃掃射の爆音と、地鳴りのような艦砲射撃の音が辺り一帯を激しく耕した。
志保は、耳を突き刺す悲鳴のような金属音と衝撃の嵐の中で、バックパックを抱きしめながら目を丸くした。
(何これ、テロ!? ……いや、もしかして、ガチな大人の『サバゲー(サバイバルゲーム)』のイベントか何かに迷い込んじゃったの……!?)
あまりに現実離れした爆音に、志保の現代OLの脳みそが完全にエラーを起こしている中、晶三は銃を抱え直すと、必死の形相で彼女の手をガシッと掴んだ。
「ここは危ない! グラマンの機銃に切り刻まれる! 僕が掘った『蛸壺』に入ろう! 早く!」
手を引かれて泥の上を走らされる志保は、息を切らせながら、心の中で激しいツッコミを炸裂させていた。
(た、タコツボ……!? さっきから一体全体なに言ってんだ、こいつはーーーッッ!!!)
噛み合わない常識のギャップを抱えたまま、お洒落な札幌OLと、函館出身のお荷物補充兵の二人は、弾雨が降り注ぐジャングルの片隅に掘られた、狭くて暗い、一つの丸い泥の穴(蛸壺陣地)の中へと、ギュウギュウ詰めに頭から飛び込んでいくのだった。
(第三話へ続く)




