第一話:定山渓の炭火、テニアン島の硝煙
七月の週末、夕暮れ時の定山渓は、札幌の街中のじっとりとした蒸し暑さが嘘のように、キリッと澄んだ涼しい山風が吹き抜けていた。
オフィスでの目の回るようなマルチタスクや、要領のいい人間関係にすり減った脳のメモリーをリセットするように、塚原志保は愛車を走らせていた。彼女の相棒は、お洒落なシャンパンゴールドの車体に絶対的な悪路走破性を秘めた、無骨なスクエアボディのスズキ・ジムニー。四駆特有の頼もしい駆動音を響かせ、豊平川の豊かな源流に近い、知る人ぞ知る手つかずのソロキャンプ場へとジムニーを滑り込ませた。
志保は二十五歳の大卒OL。恋愛はめっぽう苦手だったが、一人きりの大自然を愛するソロキャンパーとしては、誰もが認めざるを得ない「几帳面さと器用さ」を持っていた。
ジムニーのラゲッジスペースから、使い込まれた大型のバックパック(マイギア)を下ろすと、彼女の無駄のない手仕事が始まった。
ミリタリー調の頑丈なフルタングナイフを腰に帯び、慣れた手付きで広葉樹の薪をパチン、パチンと綺麗に小割りに(バトニング)していく。お気に入りのコンパクトな折りたたみコンロを組み立てると、彼女は慣れた手付きで火を熾し、炭をじっくりと熾していった。団扇で仰ぐたび、真っ赤な炭火がパチッ、パチッと小気味よい音を立てて爆ぜる。几帳面な彼女にとって、道具の配置から炭の火加減までを完璧にコントロールすることこそが、日常の雑音を完全にシャットアウトする最高の癒やしだった。
辺りがすっかり帳を落とし、LEDランタンの優しい琥珀色の光が周囲の白樺の幹を淡く照らし出す頃、至高の夕食が始まった。
志保は炭火の五徳の上に網を載せ、厳選して持ってきたジンギスカンの生ラム肉をじっくりと滑らせた。ジューッという、五感を直接震わせる最高の音が渓谷の夜に響き渡る。お肉を最高の焼き加減に育てながら、アルミホイルに包んでトロトロに溶かしたカマンベールチーズにたっぷりと絡め、口へと運ぶ。
「……ん、なまらうまい……」
小さく微笑み、彼女はクーラーボックスから冷えたシャンパンの小瓶を取り出した。小気味よい音を立てて抜かれたコルク。チタンマグに注がれた透明な気泡が、ランタンの光を浴びて宝石のように輝く。シャンパンをグッと煽ると、都会の喧騒でヘロヘロに渇いていた身体が、一瞬で100%満たされていくのが分かった。
お腹が心地よく満たされたあと、志保はバックパックから、ページの一部が擦り切れた一冊の文庫本を取り出した。
司馬遼太郎の『竜馬がゆく』。
彼女は、幕末の志士たちの熱い仁義や漢の美学、Twitterや職場のマルチタスクにはいない、新選組副長・土方歳三の生き様に、人一倍強いロマンを抱いていた。恋愛が苦手なのも、あの五稜郭で己の規律を貫いて散った土方歳三のような、一本筋の通った無骨な漢のディテールを無意識に追い求めてしまうからだった。
耳の奥を優しく満たすのは、すぐ傍らを流れる豊平川の、サラサラとした豊かな川のせせらぎの音。
お洒落なワインを傾けながら、大好きな歴史書に没頭する。これ以上ない、塚原志保だけの最高の贅沢だった。
――だが、時計の針が深夜を回る頃、テントの周囲に、不気味なほど濃く、白い「夜霧」が地表からじわじわと立ち込め始めた。
川のせせらぎの音が、ふっと不自然に、完全に消える。シャンパンの心地よいアルコールが全身を巡り、脳みそが最高に「ほろ酔い」の幸福感に包まれる中、志保はランタンの明かりと、夜霧の向こうに広がる満天の星空を見上げた。
「……ふぅ。ちょっと、お手洗い行こ……」
彼女は少し足元をふわつかせながら、キャンプ場に併設されているトイレに向かおうと、テントから一歩を踏み出した。
だが、シャンパンの酔いは、几帳面な彼女の目元をほんの数センチ狂わせていた。
「あ――」
気づいた時には、すべてが遅かった。
志保のトレッキングシューズのつま先が、自分が昼間にこれ以上ないほど強固に地面に打ち込んだ、テントの張り綱に、文字通りガチッと完璧に引っかかったのだ。
ほろ酔いの身体は慣性に抗う術を持たず、彼女の25歳のOLの肉体は、夏の夜の闇に向かって、綺麗すぎる放物線を描きながら前方へ吹っ飛んだ。
そのまま、地面の楓の葉へ向かって、全力の「ヘッドスライディング」をかます形で――。
視界が激しく上下に回転し、志保が「うわああああっ!?」と悲鳴を上げながら、水たまり……のような冷たい感触に顔面からズザーーーッッと無様に突っ込んだ、まさにその一瞬だった。
ドォォォォォォォォォォォンッッッッ!!!!!!!
耳の鼓膜を直接爆破するような、地鳴りを伴う凄まじい衝撃音が大気を激しく震わせた。
大地が底から激しくシェイクされ、内臓の位置がずれるような凶悪な重低音。
「痛たた……。な、なに!? テロか!? ガス爆発!?」
志保が泥まみれになり、肺に溜まった空気を吐き出しながらパニック状態で顔を上げた瞬間、すべての景色が反転していた。涼しかったはずの定山渓の空気は、衣服の内側にベッタリとへばりつくような、息苦しい「湿度100%の凄まじい熱帯の熱気」へと一瞬にして変貌していた。
豊平川のせせらぎなど、どこにもない。
渓谷の原生林は消え失せ、周囲は見たこともないヤシの葉と、爆撃で黒焦げになった珊瑚礁の土塊に囲まれていた。
鼻腔を突くのは、火薬が爆ぜたキナ臭い「強烈な硝煙の臭い」と、赤土が焼けた生々しい異臭。
頭上を切り裂くのは、キーンという過給機の金属的な悲鳴を響かせ、低空を限界まで傾いて超高速で旋回する、米海軍のF6Fヘルキャット戦闘機の爆音。
さらに、島全体の地殻を揺るがすようにズシン、ズシンと等間隔で響くのは、沖合を埋め尽くした米海軍の戦艦・巡洋艦が放つ14インチ(35.6センチ)大口径主砲の、容赦ない艦砲射撃の地鳴りだった。珊瑚礁の岩肌が砕け散り、巨大な破片が土煙を上げて四方へ降り注ぐ。
渓谷の美しい原生林は木っ端微塵に消え失せ、周囲は爆撃の熱風で引きちぎられたヤシの葉と、不気味に広がる亜熱帯の鬱蒼とした低木林に囲まれていた。
ヘッドスライディングの勢いのまま、お洒落なアウトドアウェアを着て、機能的なキャンプギアを満載した大型バックパックを背負ったまま、塚原志保は――昭和19年(1944年)7月24日午前、米海兵隊が誰も予期せぬ「北部チューロ海岸」への奇襲上陸を敢行した、マリアナ諸島・テニアン島北部の激戦地へと、直接タイムスリップしてしまったのだ。
「え、ちょっと待って……ここ、どこ……!? なまら暑いんだけど……っ!!」
Wi-Fiも、トイレも、愛車のジムニーもない。あるのは、川が1本も存在しない珊瑚礁の島特有の「極限の渇き」と、米軍の圧倒的な物量がもたらす「鉄の暴風」が吹き荒れる、大戦末期の生き地獄。
志保が恐怖と混乱で泥だらけの顔を歪め、硝煙が白く煙る茂みの向こうを見つめたその時、目の前の鬱蒼とした草むらがガサガサと不気味に揺れた。
そこから、錆と泥に汚れた三八式歩兵銃を必死に抱え、足をもつれさせながら這い出てきたのは――不器用な特性ゆえに臨機応変な立ち回りができず、部隊で「お荷物」「恥さらし」と罵られて置き去りにされた、「五稜郭のすぐ近く、函館のイカ漁師の倅」である歩兵第135連隊の補充兵、宮本晶三くん(20歳)だった。
ヘッドスライディングで泥に突っ込んだ札幌OLと、部隊のお荷物補充兵の、前代未聞の運命の出会いが、マリアナの爆煙の中で今、幕を開けるのだった。
(第二話へ続く)




