Case1
翌朝。
どんよりとした鉛色の雲が、ネオ・ヨコハマの空を重く覆い尽くしていた。
分厚いスモッグと混ざり合い、今にも有毒な酸性雨を降らせそうな淀んだ空模様は、ワタルのどん底の気分をそのまま映し出しているかのようだった。
「……まだ、未読か」
軋むような音を立てて進む、旧市街の古い満員電車に揺られながら、ワタルは何度目かわからない私物デバイスの画面を確認した。
昨夜、ミヅキに送った『大丈夫か?』という短いメッセージ。そこには、朝になっても「既読」のサインすらついていなかった。
普段の彼女なら、どんなに仕事で遅くても、朝には「おはよう、昨日はごめんね」と、可愛らしいホログラムスタンプと共に返信をくれるはずだ。それが一切ないということは、よほどのトラブルに巻き込まれているか、あるいは……。
(いや、考えすぎだ。ただの企業絡みの事件だ。美月はゼニスの総務部にいるただのOLだし、直接関わりがあるわけない)
ワタルは軽く頭を振り、最悪の想像を頭から追い出そうとした。だが、アナログな足を使った捜査で長年培ってきた『刑事の直感』が、耳の奥でチリチリと嫌な警鐘を鳴らし続けている。
* * *
ネオ・ヨコハマの町外れ、工場地帯の近くにある警察庁舎。
重厚なセキュリティゲートをくぐり、IDカードをかざして建物の中に入ると、そこには特有のピリピリとした空気が充満していた。
エレベーターで上がり、自身が所属する治安維持対策課のフロアへ足を踏み入れる。殺人や強盗など、下層で起きる凶悪犯罪を扱うこの部署は、最新のサイバー化とは無縁の、朝から怒号とアナログな電話のベルが鳴り響く、文字通りの『戦場』だ。
「おいワタル! 昨日の第三セクターの件、裏は取れたのか!」
「すんません班長! 今日の午後、もう一回ガサ入れの許可取ってきます!」
恰幅の良い上司の怒声に条件反射で答えながら、ワタルは自分のデスクにヨレヨレのジャケットを放り投げた。
本来なら、目の前の自分のヤマ(事件)に集中しなければならない。サイバーウェアに頼らず足で稼ぐのがワタルの信条であり、最近は目立った星(手柄)も挙げられていないため、焦りがないと言えば嘘になる。
だが、どうしても昨日のニュースで見たゼニスのことが頭から離れなかった。
「……ちょっと、下で合成コーヒー買ってきます」
ワタルは隣のデスクの先輩刑事に適当な言い訳を残し、足早にフロアを抜け出した。向かった先は、同じ庁舎内の上層階にある『サイバー対策課』のフロアだった。
治安維持対策課のむさ苦しい体育会系のノリとは違い、サイバー対策課のフロアには、どこか冷たくインテリジェンスな空気が漂っている。常に適切な温度に保たれた冷房、巨大なサーバー群の駆動音、そして宙に浮かぶ無数のホログラムモニター。
ワタルはその間を縫って歩き、フロアの奥で凄まじいタイピング速度でキーボードを叩いている男に声をかけた。
「よお、ヤベ。朝から忙しそうだな」
声をかけられた男――サイバー対策課の刑事であり、ワタルと同期の矢部は、レトロな丸眼鏡型のサイバーオプティクス(視覚拡張デバイス)の奥から、胡乱な視線を向けてきた。
「なんだワタル。脳筋の対策課様が、ウチのエリートの空気を吸いに来たのか?」
「嫌味な奴だな、相変わらず」
軽口を叩きながら、ワタルはデスクの横に寄りかかった。ヤベはワタルとは対照的に、常に冷静沈着で、ネットワークの海から理詰めで証拠を拾い上げる捜査を好む男だ。
「で? 用件は何だ。お前がわざわざサイバー課のフロアに来るなんて、ろくな用事じゃないだろう」
「……昨日の夜の、ゼニスの事件。お前んとこの担当だろ?」
ワタルが声を潜めて本題を切り出すと、矢部はホログラムキーボードを叩く手を止め、小さく息を吐いた。
「ああ、ゼニスね。……なんだ、お前、あの会社の株でも持ってんのか?」
「いや、知り合いが勤めててな。連絡が取れなくて心配なんだ。一般社員だが、昨日の騒ぎで変なとばっちりでも受けてないかと思って」
ワタルは「恋人」だとは言わず、あくまで「知り合い」と濁した。ミヅキのあの完璧な美貌が警察内部の連中に知れ渡れば、面倒なことになるのは目に見えていたからだ。
「なるほどね。結論から言うと、一般の平社員には何の影響もないよ。安心しろ」
矢部は丸眼鏡のデバイスを指で押し上げ、再びモニターに向き直って淡々と説明を始めた。
「被疑者は経理部の上層部。巧妙な手口で会社の裏金をプールし、自分の隠し口座に横流ししていた。金額はざっと3億クレジットってとこだ。だが、複数のダミー会社を経由していればそれ以上の可能性も踏んでいる。昨日の時点で証拠のデータは完全に裏が取れてるし、本人のサイバーブレインのアクセスログも押さえてある」
「単独犯か?」
「今のところはな。共犯の線も洗ってるが、被疑者はかなりビビり上がってて、昨日の護送車の中でも『俺は命令されただけだ』なんて泣き言を喚いてたらしいからな。まあ、すぐにゲロするだろうよ。ウチとしては、裏が取れて、そこを押さえるだけのイージーなヤマさ」
矢部のその言葉に、ワタルはほっと胸をなでおろした。
どうやら本当に、ただの社内不正で終わりそうな事件だ。ミヅキが連絡をよこさないのも、おそらく会社側が情報統制のために社員に箝口令を敷いているか、残務処理に追われているだけなのだろう。
(よかった……。マジで焦ったぜ)
ワタルが内心で安堵の溜息を吐き、矢部にお礼を言って一課に戻ろうと踵を返した、その時だった。
――ジリリリリリリリリリッ!!
フロア全体に響き渡るような、けたたましい非常線のコール音が鳴り響いた。
隣のデスクにいたサイバー対策課の主任が、慌てた様子で通信のインカムを叩く。
「サイバー対策課だ……。は!? なんだと!?」
主任の切羽詰まった大声に、フロア中の刑事たちの動きが一斉に止まった。
ワタルも足を止め、振り返る。
「ふざけるな! 昨日の夜パクったばかりだぞ! 留置所のジャミング(電波遮断)はどうなってたんだ!!」
主任は顔を真っ赤にして怒鳴り散らし、通信を乱暴に切った。そして、フロアにいる全員に向けて、信じられない言葉を放った。
「昨日のゼニスの被疑者が、留置所で死んだ!!」
「「「なっ……!?」」」
ヤベがガタッと音を立てて立ち上がり、丸眼鏡のデバイスをずり落としそうになった。 ワタルも、全身の血の気が一気に引くのを感じた。
「死んだ……? 自殺か!?」
「留置所でいきなり叫び始めて、頭部が爆発したみたいだ! 遠隔からのハッキングによる、脳焼き(ブレイン・バーン)の可能性が高い! すぐに死の直前の通信ログを確認しろ! 監視カメラの映像も全部押さえろ!」
怒号が飛び交い、サイバー対策課の静寂なフロアが一瞬にして修羅場と化した。 先ほどまで「イージーなヤマ」と笑っていたヤベの顔面は蒼白になり、誰かに指示を出すために慌ただしく走り去っていった。
その喧騒の中に取り残されたワタルは、ただ一人、背筋に冷たい汗が伝うのを感じていた。
逮捕されたばかりの、被疑者の、突然の死。
『俺は命令されただけだ』と泣き喚いていた男が、警察の強固な電波遮断網を張られた留置所の中で、いきなり外部からハッキングされて頭を吹き飛ばされるか?
(……単なる日常に起きる横領事件なんかじゃない。何かが、とてつもなく巨大な闇が、裏で動いてる)
アナログな刑事としての本能が、これはただの事件ではないと強烈に告げていた。
そして、その得体の知れない暗い渦の中心に、愛する彼女――ミヅキがいる。
「……ミヅキ」
ワタルは無意識のうちに、無骨なガンメタルの義手で、ジャケットのポケットの中にある『返信のないデバイス』を、メシミシと音を立てるほど強く握りしめていた。
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