Prologue
分厚い酸性雨が、錆びついたトタン屋根を叩き続ける。
ネオ・ヨコハマの夜は、いつだって鉛色に濁っていた。ミラ=コアの恩恵を受ける一部の上層エリアだけが煌びやかなネオンを放ち、そこから零れ落ちた光が、這いつくばるように広がる工場地帯の薄汚れたスモッグを不気味に照らし出している。
『――現在、容疑者を乗せたとみられる車両が、地下駐車場から出てまいりました! 現場は怒号が飛び交い、一時騒然となっております!』
壁に直接投影された安物のホログラムモニターから、耳を劈くようなサイレンの音と、アナウンサーの興奮した声が薄暗いワンルームの部屋に響き渡った。
テーブルの上には、夕食に買った合成肉の炒め物が入った紙箱と、水滴のついたラベルのないビール缶。
治安維持対策課の刑事、オクムラ・ワタルは、右手に持っていたビールを口元で止め、モニターの映像を食い入るように見つめた。
その右手は、武骨な軍事用の義手だった。
かつての事件で失った生身の腕の代わりに接合された、艶のないガンメタルの人工筋肉。最新のスマートなサイバーウェアが普及するこの街において、ワタルの義手はあからさまに時代遅れで、無骨な鉄の塊だった。
画面の中央では、酸性雨を防ぐための分厚いフードを被った小柄な男が、屈強な企業警察の捜査員たちに両脇を抱えられ、装甲ワゴン車に押し込まれようとしていた。
男の顔は見えない。だが、画面の下部に流れるテロップには『大手インフラ企業・ゼニス 武器密輸、賄賂、および殺人の疑いで強制捜査』とデカデカと踊っている。
「……ゼニスって、あいつの会社じゃねぇか」
ワタルはビールの缶をドンッとテーブルに置き、慌てて私物の通信デバイスを手に取った。
分厚い義手の指先で、ホログラムの連絡先から『ミヅキ』という名前をタップし、耳に当てる。
トゥルルルル……。
無機質なコール音が続く。
ワタルは貧乏ゆすりをしながら、モニターの映像と壁の時計を交互に見た。時刻は午後九時を回っている。普段なら、もう帰宅していてもおかしくない時間だが、自分の会社でこれだけの騒ぎが起きているのだ。現場はパニックだろうし、足止めを食らっている可能性は高い。
「出ろ……。頼むから出てくれ……」
祈るような思いで呟くが、願いは届かず、やがて自動音声のメッセージへと切り替わった。
舌打ちを一つして、ワタルは通信を切る。
美月――シノダ・ミヅキ。
半年ほど前、この酸性雨の降る薄汚れた街で偶然出会い、意気投合し、現在交際中の恋人だ。
彼女は、この泥塗れのネオ・ヨコハマには不釣り合いなほど、絵に描いたような『完璧なOL』だった。
透き通るような白い肌、誰もが振り返る抜群のスタイル。そして何より、少し抜けたところのある愛らしい笑顔。
男所帯の殺伐とした治安維持対策課で、連日、血と泥とオイルにまみれながら這いずり回っているワタルにとって、彼女は別次元の存在に思えた。一緒に街を歩いているだけで、すれ違うゴロツキたちの嫉妬の視線が突き刺さる。正直、「なんでこんな絶世の美女が、俺みたいなむさ苦しいアナログ野郎なんかと……」と、いまだにタジタジになってしまう自分がいる。
だが、そんな自慢の彼女が勤めている会社で、今まさに大事件が起きているのだ。
ゼニスといえば、表向きはこのネオ・ヨコハマの食料やエネルギーを配給する優良企業だ。しかし、裏ではシブヤのシンジゲートへ違法武装や麻薬を密輸し、人身売買にも手を染めているという黒い噂が絶えない。
治安維持対策課の管轄外とはいえ、事件の中心に彼女の職場があると思うと、気が気ではなかった。
「……まさか、変なことに巻き込まれたりしてないよな?」
ワタルは再びデバイスを手に取り、今度はチャットの画面を開いた。
『ニュース見たぞ。ミヅキの会社だろ? 大丈夫か? 落ち着いたら連絡くれ』
短いメッセージを打ち込み、送信する。待っても既読のサインはつかない。
モニターの中では、容疑者を乗せた装甲ワゴン車が、報道陣のドローンを掻き分けてゆっくりと走り出していた。
それを見送るように、画面の端に映ったゼニスの重厚な高層ビル。その窓の明かりのどこかに、彼女がいるのかもしれない。
「……明日、ちょっくら、しょっぴかれた連中に話でも聞いてみるか……」
ワタルは冷めきった溜息を吐き出し、ぬるくなった合成ビールを一気に煽った。
泥臭く生きてきた刑事としての直感が、何か嫌な予感を告げていた。
だがこの時のワタルは、まだ知る由もなかった。
この事件が、ネオ・ヨコハマを牛耳る闇、そして世界を支配するミラ=コアへと繋がる、運命の歯車の一部だということを。
* * *
一方その頃――。
サイレンの音が遠ざかり、少しだけ静けさを取り戻したゼニス本社の、消灯された会議室。
ブラインドの隙間から差し込むサーチライトの光だけが、誰もいないはずの空間を幾何学的に切り裂いていた。
――空間が、不自然に陽炎のように揺らいだ。
シュゥゥン、と微かな電子音が鳴り、風景と同化していた『光学迷彩』のホログラムが解除される。
暗闇の中から音もなく姿を現したのは、タイトな黒のタクティカルスーツに身を包んだ、一人の小柄な影だった。
「……はい。対象の確保、および輸送車の発進を確認しました。ええ、連中は何も気づいていません。ただの密輸事件のトカゲの尻尾切りとして処理するつもりでしょう」
暗闇の中で、静かに、しかし冷徹に響く女の声。
彼女は一切の通信機器を持っていなかった。声帯の振動を直接拾うインプラントマイクと、眼球に埋め込まれた高機能サイバーウェア――網膜ディスプレイを通じて、暗号化された極秘回線で会話をしているのだ。
「ええ、ゼニスの裏帳簿と、事件に繋がるデータはすでにこちらで回収済みです。はい。引き続き潜入を継続します――」
脳内での通信を終え、彼女は静かに窓際へと歩み寄った。 ブラインドの隙間から下界を見下ろすその顔は、窓ガラスに薄っすらと反射していた。 誰もが目を奪われる、完璧な美貌。 つい先ほどまで、給湯室で同僚たちと「どうしよう、怖いね」と震えていたはずの、可憐なOLの顔はそこにはない。
シノダ・ミヅキ。
彼女は、感情の読めない氷のような目で、遠ざかっていくパトカーの赤色灯を見つめていた。
この腐敗したネオ・ヨコハマで暗躍する、サイバー対策課の超エリート特務捜査官。そして、世界に反逆するレジスタンス『NOVA』のヨコハマ支部リーダー。それが、彼女の本当の顔だった。
「……さて。邪魔なハエは片付いた。あとは裏で糸を引いている大鳥と、奴らが探している『赤コード』の正体を炙り出すだけ……」
そして、世界に反逆するレジスタンス『NOVA』のヨコハマ支部リーダー。
ピリッ、と彼女の視界の端で、個人的な通知アイコンが点滅した。
眼球の動きだけでウィンドウを開くと、それは『ワタル』からのチャットだった。
『ニュース見たぞ。ミヅキの会社だろ? 大丈夫か? 落ち着いたら連絡くれ』
その無骨で不器用な文面を視界に捉えた瞬間。
ミヅキの氷のような瞳が、ふわりと柔らかく、温かい温度を取り戻して解けた。
「……もう、ワタル君ったら。心配性なんだから」
先ほどまでの冷徹な特務捜査官の面影は消え失せ、恋人を想う一人の女性の、甘く嬉しそうな笑顔がそこにあった。
彼女にとって、サイバー化もされていない生身の体で、泥臭く正義を追い求めるワタルの存在は、この薄汚れた街で見つけた唯一の『光』だった。だからこそ、自分の本当の姿など、絶対に知られるわけにはいかない。
すぐに彼女は小さく息を吐き、再び表情を引き締めた。
「ごめんね、ワタル君。……あなたを、こんな危険な戦いに巻き込むわけにはいかないの」
ミヅキは網膜のウィンドウを閉じ、スーツの光学迷彩を再び起動させた。
空間が歪み、彼女の姿がゼニスの暗闇の中へと完全に溶け込んで消える。
ネオ・ヨコハマの酸性雨が降る夜。
すれ違う不器用な恋人たちの、長く、危険な駆け引きが、今まさに幕を開けようとしていた。
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