Case2
ゼニスの被疑者が警察の留置所で『脳焼き(ブレイン・バーン)』されて死亡したという事実は、事態を急転直下、最悪の方向へと転がした。
その日の午後。
ネオ・ヨコハマの警視庁本庁舎にある、冷暖房の効きが悪い旧式の大会議室には、異様なまでの緊張感が張り詰めていた。
長机を挟んで、右側には最新のスマートスーツをきちっと着こなし、網膜デバイスを光らせているサイバー対策課の面々。左側には、ヨレヨレのジャケットや安物のジャンパー姿の、目つきの鋭い治安維持対策課の刑事たちが陣取っている。
「――静かにしろ」
ホワイトボードの前に立つ、治安維持対策課の管理官が低い声を響かせると、会議室のざわめきが波を打つように消えた。
「状況を整理する。昨夜、株式会社ゼニスの経理部主任、クラタが業務上横領の容疑で逮捕された。だが今朝、勾留先の留置所にて、何者かによる遠隔ハッキングを受け、サイバーブレインを焼き切られて死亡した」
アナログな旧式のホワイトボードに、監視カメラが捉えていたクラタの生前の写真と、頭から黒いオイルと血を流して倒れている凄惨な現場写真が貼り出される。
「留置所は、警察の強固なジャミング(電波遮断)が張られていた。そこを突破してのハッキング暗殺だ。サイバー課の調べでは、クラタは昨夜の逮捕時、『俺は命令されただけだ』『殺される』などとひどく錯乱し、怯えていたという。この不可解な点から、上層部は本件を単なる横領事件のトカゲの尻尾切りではなく、巨大な組織による『口封じ』の可能性が高いと判断した」
管理官の言葉に、一課の刑事たちの間から低く唸るような声が漏れた。
後列のパイプ椅子に座っていた渉も、無骨な軍事用の義手を組みながら、鋭い視線を現場写真に向けていた。
「口封じ……。数億クレジットの横領の裏に、別の誰かがいるってことか」
「ああ。だが、きな臭いのはそれだけじゃない」
渉の隣に座っていたサイバー課の矢部が、丸眼鏡のデバイスを押し上げながら忌々しそうに吐き捨てた。
矢部が立ち上がり、ホログラムで空中に資料を展開しながら読み上げる。
「サイバー課からの報告事項です。クラタの横領に関する裏付けを取るため、昨夜からゼニス経理部の社員数名に任意で事情聴取を行っていました。そのうちの一人、クラタの直属の部下であり、最も親しかったとされる社員が――今朝未明、聴取からの帰宅途中に、大型の自動操縦トラックにはねられました」
「なんだと……!?」
渉は思わず身を乗り出した。会議室全体が再びどよめく。
「トラックはそのまま逃走、ハッキングによる遠隔操作だったため足取りは掴めていません。はねられた社員は、肉体の七割をサイバーウェアに換装していたにもかかわらず、装甲ごとミンチにされて意識不明の重体。現在、中央病院のICUに入っています。……クラタの死亡時刻と、ほぼ同時間帯の出来事です」
「偶然にしちゃあ、出来すぎてるな……」
ワタルの所属する班の班長が、無精髭を撫でながら唸った。
ただの社内不正だと思われていた事件が、一夜にして被疑者の暗殺と、重要参考人のひき逃げ(物理的な粉砕)という、血生臭い連続事件の様相を呈してきたのだ。
「サイバー課は引き続き、ゼニスの裏帳簿と資金の電子ログを洗え! 我々治安対策課は、現場検証、並びにひき逃げ車両のアナログな足取りを追う! ゼニス関係者には何らかの巨大な圧力がかかっている可能性が高い。不審な動きを見せる人間がいないか、足で徹底的に洗い出せ!」
管理官の号令とともに、合同捜査会議は解散となった。
刑事たちが次々と立ち上がり、怒号交じりに指示を飛ばしながら会議室を出ていく。
その喧騒の中で、渉は一人、その場に立ち尽くしていた。
ホワイトボードに書かれた『ゼニス』の文字が、脳裏に焼き付いて離れない。
横領犯の不可解な脳焼き死。そして、その関係者のひき逃げ。
まるで、事件の真相に近づこうとする者たちを、目に見えない巨大な手が次々と握り潰しているかのようだ。
(……ミヅキ!)
渉は慌てて会議室の隅へ移動し、ポケットから古い型のスマートフォンを取り出した。
網膜デバイスでの通信が主流のこの街で、渉はハッキングリスクを嫌い、あえてこの物理的な端末を使い続けている。
チャットの画面を開く。
昨夜送った『大丈夫か?』というメッセージには、いまだに既読がついていなかった。
(まさか、ミヅキも何か知っちまって、巻き込まれたんじゃ……!)
血の気が引く思いだった。
彼女は経理部ではないはずだが、同じ社内でこれだけの異常事態が連続しているのだ。無関係でいられる保証はどこにもない。
渉は震える指で、彼女の番号に発信した。
トゥルルルル……。トゥルルルル……。
「出ろ……頼むから、無事なら出てくれ……!」
祈るように画面を握りしめる。
何度目かのコールの後、不意に、プツンと音が途切れた。
『――はい』
「ミヅキか!?」
電話の向こうから聞こえた、少し掠れた、しかし聞き慣れた愛おしい声。
渉は思わず周囲の目も気にせず、大きな声を上げてしまった。
『……あ、ワタル君? ごめんね、昨日からずっとスマホの電源切れちゃってて。今、会社の充電器に繋いだとこ』
「お前、無事なのか!? 怪我とか、変なトラブルに巻き込まれてないか!?」
『え? うん、大丈夫だけど……。昨日の夜、急に会社でゴタゴタがあって、そのままカンヅメにされちゃって。ワタル君、あのニュース見たんだね。心配かけてごめん』
いつも通りの、少し呑気で可憐な彼女の声。
その声を聞いた瞬間、渉の全身からスッと力が抜け、壁に寄りかかってズルズルとしゃがみ込んでしまった。
「……よかった。本当に、よかった……」
安堵のあまり、泣きそうになるのを必死に堪える。
目の前で凄惨な死体を見ても眉一つ動かさない自分が、たかが恋人と半日連絡が取れなかっただけで、ここまで取り乱すとは。
『ワタル君? どうしたの?』
「いや、なんでもない。……お前の会社で起きてる事件、俺のいる対策課も動くことになった。かなりヤバい事件に発展してる。だから、絶対に無理するなよ。何か変わったことがあったら、すぐに俺に連絡しろ。いいな?」
刑事としての強い口調で念を押す渉に、電話の向こうのミヅキは『うん、わかった。ありがとう』と優しく返した。
「……じゃあ、俺はこれから現場だ。今週末、もしそっちが落ち着いてたら、メシでも食いに行こう。美味い合成肉じゃない、本物の肉、ご馳走するから」
『ふふっ、ほんと? 楽しみにしてるね』
通話が切れ、画面が暗くなる。
渉は深く息を吐き出し、立ち上がった。
彼女の無事が確認できたことで、心の中にくすぶっていた焦燥感は、事件の真相を必ず突き止めてやるという、刑事としての熱い闘志へと変わっていた。
「待ってろよ、得体の知れない黒幕さん。俺の女の会社で好き勝手やってくれた落とし前は、きっちり取らせてやるからな」
渉はジャケットの襟を立て、無骨な義手を握りしめ、力強い足取りで会議室を後にした。
だが、この時の渉は、もちろん知る由もなかった。
電話の向こうで『カンヅメにされてて』と呑気な声を出していた愛しの彼女が。
今まさに、ネオ・ヨコハマの薄暗い路地裏で、光学迷彩スーツの機能をオフにしながら、警視庁の内部システムに不正アクセスし、ひき逃げ事件の監視カメラ映像を密かに『完全消去』している真っ最中だったなどとは――。
「……ごめんね、ワタル君。ディナーの約束は、守れそうにないわ」
シノダ・ミヅキは、網膜ディスプレイに浮かび上がる『証拠隠滅完了』の文字を無表情で見つめながら、赤黒く染まった暗殺用のナノブレードを、闇の中に静かに収めた。
すれ違う嘘つきな恋人たちの、長く、危険な駆け引きが、今まさに幕を開けようとしていた。
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