小さな邪竜が降り立つのは、《雪花の世界》
「よろしかったら息抜きに、違う世界へ向かわれたらどうでしょう?」
『違う……世界??』
アリスの言葉に、チビナは目を丸くした。
チビナはなんだかんだ言って、引きこもりだ。あまりこの《箱庭》から外に出ることはない。
それは、この《箱庭》内での暮らしでも不自由がないというのもあるが……チビナの力では、外から《箱庭》に戻るのは可能でも、この《箱庭》から外の世界に行くには安全が保証できなかったからでもある。
何故、戻るのはできても行くのが難しいのか? それは、目印とする楔が存在しないからだ。
《箱庭》に戻る時は、本体である邪竜との縁を辿って戻ってくればいい。しかし、この《箱庭》から外の世界に……となると、一気に難しくなる。なんせチビナ達が暮らす、数多の世界を内包する領域は日夜、世界が生まれては消えるという特殊な場所であるので。しっかりと目的地──安定した世界かつ暫く消える予定のない世界──を決めて向かわなければ、崩壊する世界に巻き込まれて、一緒に滅びることになってしまったり。亜空間に放り出されて、この《箱庭》に戻ることが困難になってしまうのだ。そもそもの話、邪竜の力の一部を分け与えられた程度の力しかないチビナでは、世界を好き勝手渡るような力がないとも言う。
(それを、《全知》を持つアリスが分からないはずがないのになぁ〜?)
なのに彼女はそれらを知りながら、チビナに違う世界へ向かうことを誘う。
チビナは探るような視線を、アリスに向けた。
『……何が目的ぃ?』
「そこにチビナ様の運命がいるからですよ?」
『…………はぁ? ぼくの運命ぃ?』
「えぇ。その出会いが、アリスが望む未来への布石でもあるのです」
アリスはうっとりと、灰色の雲がちらほらと揺蕩う空を見上げる。それはまるで、未来に想いを馳せているかのようで。実際に、その目には彼女だけが見ることができる未来が、映し出されているのだろう。
本音としては、ただの親切心から言い出した訳じゃないと分かって安心する。なんせ無料と押しつけの親切心は何よりも恐ろしいのだから。
そして、アリスからの提案を受けたチビナとしては。
(まぁ……ぶっちゃけ。断る理由がないんだよねぇ〜)
純粋に、断る理由がなかった。というか……マリアンから離れて息抜きができるなら、良い提案ですらある。
そもそもの話、アリスがこの話を持ち出してきたのはチビナの息抜きのためでもあるのだ。
マリアンの横暴に疲れている今──チビナは彼女から離れて、英気を養った方がいいかもしれないと。そう考えた。
…………離れた後のマリアンからの暴力を思うと、憂鬱になるが。
だが、そんな本心も《全知》持ちのアリスには筒抜けで。アリスは不敵に笑って、その憂慮を薙ぎ払った。
「ふふふふっ、安心するのですよ。そこら辺はきちっとアリスが支援するので」
『具体的にはぁ?』
「この《箱庭》と外の世界の時間の流れが違うのを利用するのです」
『あぁ〜……そういうこと?』
この《箱庭》は、《箱庭》の主人である邪竜の気まぐれ気質が影響しているからか……時間の流れが流動的だ。外の世界と比較すると、とてもゆっくりと時間が進んでいる時もあれば、信じられないぐらいに速く進んでいる時もある。
アリスが言いたいのは、ここ《箱庭》内の時間が停滞しているタイミングで他の世界に外出するようにすれば、マリアンの機嫌を損ねるのを、最低限にまで抑えられるということなのだろう。
「お出かけするタイミングを毎回アリスがお伝えしに来るのですよ。そうすれば、チビナ様は比較的安全に息抜きしに行けるのです」
『……へ〜? そこまでアリスがする価値が、ぼくが向かう世界にはあるって言うんだぁ?』
「えぇ、そうです。アリスは言ったですよ? これが、アリスが望む未来に辿り着くための、一手ですと」
何がそこまで彼女を駆り立てているのかは分からない。けれど、その目に宿る光が、熱望を宿しているのは感じ取れた。なんとしてでも、アリスが求める未来に辿り着きたいのだと、理解できた。
『…………』
チビナは邪竜の力を分け与えられて作られた、邪竜の分体だ。
本体であればそんなアリスの願いなど気にすることなく。簡単に蹴飛ばすこともあれば気まぐれに了承してやることもあるだろうけれど。
チビナは邪竜よりも、ちょっとだけ優しいので。
『…………いーよ。アリスの提案に乗ったげる』
きっと答えは分かっていただろうけれど、チビナはそれに頷いてやった。
アリスはにこっと笑って、「ありがとうございます」と返す。
「では早速、向かわれます?」
『思ったよりも早い話だったな?』
「そうでなければ態々今日、話しかけることはないのですよ」
『それもそっか〜』
その返事を了承と取ったらしいアリスはパッと立ち上がり、界竜の眷属としての力を発揮して世界を渡るための《門》を生み出す。
歪んだ空間の渦。その前に立ったアリスは顎に手を当てて。「そうですね〜……」と、クルッとチビナの方に振り向いた。
「分かりやすいように、これからチビナ様が向かう世界は《雪花の世界》と名義するのですよ」
『…………せっか? せっかって……雪の花?』
「ですです」
『なんで?』
「一年通して、寒い世界だからです」
『…………』
なんてアリスは言うけれど。なんか含みがある印象だった。
とはいえ本人はそれ以上語る気がなさそうであるし……聞くだけ無駄か、とチビナはこの件をこれ以上掘り下げることを諦めた。
「さて……準備はいいです?」
『うん』
「では、行ってらっしゃいでーす!」
手を振るアリスに見送られ、チビナはふわっと飛び上がって《門》に潜り込む。
通る一瞬だけ生じる違和感。肌にまとわりつく感覚に不快感を覚えるけれど、それは《雪花の世界》に辿り着いた瞬間に消え去る。
『…………成る程ぉ。これは確かに、《雪花の世界》かもぉ』
ひやりとした風。ふわりと頬に触れる冷たい感覚。
ちらほらと灰色の空から降ってくるのは……白い結晶。つまり、雪。雪の花。
静かに雪が降り注ぐこの世界はアリスの言う通り、《雪花の世界》と称するに値する場所であるようだった。
(さて……ここはどこなのかなぁ?)
チビナはきょろきょろと周りを見渡す。
彼が降り立った場所は、どこかの路地裏のようだった。人の姿は一切ない。赤茶色の煉瓦の建物に石畳の道路。ある程度整備されている街並みからして、そこそこ発展している街であるようだ。
(……あ。聞き忘れたなぁ。ここが人型の種族がいる世界なのか、その他以外の姿を有する種族達の世界なのかを)
とは言っても、アリスがワザと伝えなかった可能性もある。聞き忘れてしまったのはもう仕方ないと、チビナは自分で確認することにした。
取り敢えず今、確実に分かるのは。どことなく澱んだ気配を感じ取れること、だ。……それはきっと、《破滅の邪竜》に類するモノが好む、負の気配。
(取り敢えずは観察、かな?)
チビナはふわりと飛び上がって、建物よりも上の位置で空中停止する。
雪が降っているからか人気は殆どない。でも、厚着をした人型の住人が、緩慢な動きで歩いていた。
(おっと。人型の住人かぁ〜……なら、この姿じゃ目立っちゃうな)
今のチビナはぬいぐるみサイズの竜だ。流石にこのままの姿で動いていたら、目立つに決まっている。
チビナは再び路地裏に降り立ち、体内の魔力を巡らせた。
──パキ、パキパキパキッ……。
骨格が変わっていく。鱗の下にある体表は、人間と同じ白い皮膚に変化して。鱗はこの寒い世界で着ていても違和感のない、ふわふわの服に変わる。
「ふぃ……」
少しだけ伸びた襟足を一つ結びにした黒髪、猫目気味な黄金の瞳。丸い頬に、艶やかな唇。
そうして人型に転じたチビナの姿は……《破滅の邪竜》の人型を幼くしたような、可愛らしい少年の姿であった。
「はぁ〜……人型になると、一気に寒く感じるなぁ」
チビナは白い息を吐きながら、手を揉み込む。
本当のところは、元が竜なだけあって普通の人間よりは寒さは感じないけれど。それでも人型の方が竜型よりも寒さを感じやすい。
「さてさて……これから、どうしよっかな?」
チビナはいつまでもここにいては埒が開かないと、当てもなく歩き出す。
しかし、本当に行き当たりばったりだ。どこに行くべきなのか。この世界で何をしようか。何も分からずに、考えずに、歩く。
そして──……。
「こんな綺麗なガキ……見たことがないな」
チビナは人攫いに遭い……高額で、奴隷商に売られてしまうのだった──……。




