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第四章:鏡写しの世界

 白いブラウスを着た女性が立っている。


 明るい笑顔を浮かべ、目元の泣きボクロが特徴的な、よく知った顔。


 親しい人のはずなのに、名前が思い出せない。




「君は……?」




 呼びかけて手を伸ばすが、相手の姿は遠ざかっていく。




「待ってくれ!!」




 大切な存在であるその人が離れていくのを見て、焦る。


 しかし、ふと思った。


 この女性と俺は、一体どんな関係だったのだろう――




「はっ……!!」




 突然、視界が開ける。


 見覚えのない天井に、全身に覚える倦怠感。どうやら、眠っていたらしい。




「心晴……恋人……」




 夢の中の答えを口にし、安堵の息をつく。


 悪夢にうなされ、全身に汗をかき、まとわりつく下着が不快だ。




「よ~く眠れたかの?」




 ふと、耳元で聞こえる囁くような声。




「は?」




 間の抜けた声を上げ、隣を見る。


 すると、薄い浴衣を着た銀髪の少女が、なぜか俺の左腕に身体を寄せていた。


 息がかかるほどに近い場所にある顔と、腕に押し付けられる胸の感触。


 俺は天井を向いて深く息を吐き、体を起こす。




「なぜ……隣で寝ている?」


「なぜ、と言われてものう。寝室はここだけじゃし、布団も一つしかないじゃろ?」




 悪戯っぽい表情を浮かべ、口元に人差し指を当てる。


 こちらをからかっているというのは、すぐに分かった。




「だったら、俺は別の場所で寝よう。布団には入ってくるな」


「なんじゃ、いけずじゃのう」




 体を起こしてけらけらと笑う少女を、げんなりと見やる。


 頭に生えた獣の耳以外は、普通の人間と変わらないが、神様らしい。


 かわいい顔をしているが、琥珀色の瞳は、全てを見透かしているようで不気味だ。




「シャワーを浴びてくる……」


「体を洗うのを、手伝ってやろうか?」


「いらん……」




 蠱惑的な表情を浮かべる少女を一蹴し、風呂場へと向かう。


 神社の横に併設されたこの母屋は、法師陰陽師が暮らす家でもあり、事務所でもあった。


 仕事場も含めれば、2DKと狭くはないが、二人で住むには手狭だ。




「というか、あいつも住むのか……?」




 俺をこの世界に導いた存在ではあるが、記憶を奪う災厄でもある。


 正直、どう接すればいいのか分からない。


 服を脱ぎ、洗濯籠に放り込み、浴室の引き戸を開ける。


 木目調のパネルの壁に、樹脂の床。見慣れた現代的な光景。


 蛇口をひねれば、温かいお湯が出てくる。




「異世界か……」




 西洋風のファンタジーが頭に浮かぶが、この世界は俺が住んでいた現代と変わらない。


 禍津という自然災害を除けば――




「俺も、なんだか若いんだよな……」




 鏡に映る自分の姿は、心晴と一緒で学生時代に戻ったかのようにあどけない。


 法師陰陽師という職に就いているのだから、歳はあまり変わらないのだろうが……。


 ここに来る前の俺は、もっと疲れた顔をしていたはずだ。




「気持ちいい……」




 シャワーから出てくるお湯が、不快な汗を洗い流していく。


 考えることは多いが、今だけは忘れることにした。








「それで、お前は何者なんだ?」




 事務所に置いてある一人掛けのソファに腰を下ろし、コーヒーを飲む少女に問う。


 自分が飲むために淹れたコーヒーだが、奪い取られた。




「わしの名前は明(あき)の姫。神社に祀られている神様じゃ」




 ソーサーにコーヒーカップを置く所作は、優雅で落ち着いている。




「なぜ俺をこの世界に連れてきた」


「お主が願ったからじゃが?」




 首を傾げ、さも当然のように言われ、頭を掻く。


 確かに俺は、毎晩のようにあの神社で泣き、願っていた。


 今思えば情けなくもあるが、それだけ追い込まれていたのだ。




「俺は心晴に会いたいと言っただけだが……」


「会えたじゃろ?」




 手応えを感じない返事。


 言っていることは間違ってはいないが、意図が伝わっていないというか、うまくかわされているというか……。


 しかもこいつは、禍津を倒した後、いつの間にか居なくなっていた。




「会えたけどな……ここは、俺がいた世界とは違うんだろ?」


「そうじゃな。森羅万象、全てのものは『陰』と『陽』に分けられる」




 明の姫は、言いながらコーヒーの中にポーションタイプのクリームを入れる。


 それは、黒い表面に白い渦を描いていく。




「お主の居た世界の裏側、影になる場所とでも言おうかの」


「影……」


「だから、この世はお主が居た世界に似ているが、陰の気が強い」




 スプーンでコーヒーをかき混ぜると、クリームはコーヒーの中に溶けていく。




「つまり、完全な異世界ではなく、鏡写しの世界?」


「少し違うが、まぁそんなもんじゃ」




 理解しようとするが、思考は追い付かない。


 そもそも、異世界という存在自体が、ファンタジーやSFのようなフィクションだ。




「考えようとするな。お主が見ているものが全てじゃ」


「もっともらしいことを言うがな……お前に騙されてる可能性もあるだろ」




 こうやって体験している以上、この世界を否定することはできない。


 だが、目の前の存在が胡散臭すぎて、信用するのを脳が拒む。




「お前は、俺の記憶を奪った……」




 朝に見た悪夢が脳裏をよぎり、右手が震える。




「人聞きが悪いのう。奪ったわけではない。代償じゃ」




 悪びれた様子もなく、シロップを入れたコーヒーに口をつける。




「お主の願いを叶えてやった。それに、術を使うも使わないも、お主次第じゃ」




 確かに、記憶は術の行使の度に消えるらしい。


 とはいえ、あんな化け物を前にして、何もしない訳にもいかない。


 選択肢が与えられているように見えるが、他に手段はない。




「そもそも、どうして俺の恋人の記憶を奪う?」




 なにより、疑問に思ったのはそれだ。


 代償なら、他になんだってあるはず。


 仮に記憶しか代償に出来ないとしても、想い人の記憶である必要はない。


 明の姫の目を、睨みつけるように見据える。


 コーヒーカップを手にし、再び口をつける。


 それをソーサーに戻して……




「それは……」




 口を開こうとした瞬間、部屋に呼び鈴が鳴り響く。




「出ないのか?」




 こちらを向いて、にやりと口元を曲げる。


 はぐらかされたことを腹立たしくは思うが、来訪者も気になる。


 なぜなら……




「方士様、いらっしゃいますか?」




 外から聞こえる、心晴の声。なんとなく、そうじゃないかと思った。


 「また後で聞くからな」と視線で訴える。明の姫は口元に手を当て、勝ち誇ったように笑っていた。


 短く息を吐いて、扉の前に立つ。


 扉を開けると、強い日差しが差し込んでくる。


 その先に立っているのは、ノースリーブのワンピースを着た心晴。




「方士様!!」




 外に出ると、心晴は明るい声を上げた。


 その姿を改めて見つめる。長いまつ毛に、目の横の泣きボクロ。


 少し若くは見えるが、やはり心晴だ。


 鏡写しの世界という言葉が、改めて頭を過ぎる。




「おはよう、心晴」


「おはようございます」




 挨拶をすると、深く頭を下げられる。


 目上の人に対するような態度で、なんだかむず痒い。




「あの、方士様。朝ごはんって、もう食べました?」


「ん? ああ、いや……まだだけど」




 おずおずと身体を揺らす心晴。




「よ、よかったら……これ」




 言いながら、差し出してきたのは弁当箱だ。




「開けてもいいか?」


「は、はい。もちろん!!」




 頷いてから、ジッとこちらを見つめてくる。


 視線が気になるが、弁当箱の蓋を開ける。


 すると、中には色とりどりの具材が挟まれた、サンドイッチが入っていた。




「あ……」




 それを見て、言葉が詰まる。


 生前の心晴も、よくご飯を作ってくれた。


 俺が好きなカツやハムが入ったサンドイッチに、紙カップに入ったフルーツ。


 あまり野菜を食べないのだが、健康のために食べなきゃいけないと言われ、小さなサラダが入ったカップも添えられていた。


 そこに生前の心晴の息吹を感じ、心の奥底から感情がせり上がりそうになる。




「あ、あの? お気に召しませんでしたか?」




 不安そうに眉を顰めて、顔を近づけてくる心晴。




「ああ、いや……。むしろ逆だよ。本当においしそうで、目を奪われてしまった」




 感情を飲み込んで、笑顔を返す。




「よ、よかったー。方士様が野菜嫌いなのは知ってるけど、それだと身体によくないので」


「あ、ああ……面目ない」




 言われた言葉にどきりとしつつも、感情を隠して笑う。


 俺の世界に居た心晴とは違うのかもしれないけど、やっぱりこの子は……




「あの、私は学校があるので、これで……」


「ああ、ありがとう。弁当箱は洗って届けるよ」


「い、いえ!! また夕方取りにきますから!! それじゃ!!」




 心晴は捲し立てるように言うと、また昨日のように走って行ってしまう。


 少しそそっかしい所も、似ている。


 ふっと口元を緩めるが、同時にチクリと胸が痛んだ。




「なんじゃ、それは?」




 心晴を見送り、扉を閉めて家に入ると、明の姫がめざとく弁当箱に目を向けてくる。




「心晴が持ってきてくれた。一緒に食うか?」


「おお、うまそうじゃのう」




 そう言って、目を輝かせた明の姫は、手から弁当箱ごと奪っていく。


 ため息を吐き、台所で自分の分のコーヒーを入れる。


 それを机の上に置いて、嬉しそうに苺を頬張る明の姫に尋ねる。




「なぁ、この世界の俺と心晴って、どういう関係なんだ?」




 同じ人物だとしても、その詳細は違うようだ。


 実際、俺はエンジニアではなく法師陰陽師という職に就いている。


 出身も、この地域ではないらしい。持っていたスマートフォンから得た情報だ。




「お主の想い人は、恋人ではないようじゃ。こっちのお主は奥手だったみたいじゃな」


「うるせー……」




 にやにやとした視線を向けられ、げんなりとする。




「まぁでも、お主のことを好いてるみたいじゃし、よかったのう。ぴちぴちギャルじゃぞ?」


「それ、死語だからな」




 呆れて言いながら、全て奪い取られる前に、弁当箱からサンドイッチを手に取る。


 分厚いカツサンド。朝から用意するのは、大変だったと思う。


 口にすると、懐かしい味がする。


 噛みしめるたび、ソースの甘酸っぱさと共に、熱い感情がせり上がってくる。


 複雑な気持ちになったのには、理由があった。




「なぁ……」




 俯き、テーブルに置かれた湯気が漂うコーヒーカップを見つめる。




「俺がこの世界に居られるのって……」




 その言葉に、明の姫がピクリと肩を揺らす。


 口の中のものを飲み込んでから、こちらを見る。




「昨日も言ったじゃろ?」




 コーヒーを一口含み、飲み込んで……




「想い人の記憶を、完全に失うまでじゃ」

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