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そのお願い、たぶん一人分のシフトじゃないです(1)

この相談は全4回に分けてお届けします。

その日の予約表には、紹介者の名前が小さく書かれていた。


藤野奈央(ふじのなお)


数日前、退去費用の件で来た学生の名前だ。


相談が終わったあと、奈央は「知り合いにも、ここを教えていいですか」と聞いた。


三枝灯里(さえぐさあかり)は、そのとき少し驚いて、少しだけ嬉しくなった。


怪しい相談所だと思っていた場所が、誰かの次の行き先になっている。


その実感は、悪くなかった。


ただし、怪しさが消えたわけではない。


北千住(きたせんじゅ)の雑居ビル七階。


有瀬生活(ありせせいかつ)相談所(そうだんじょ)の入口には、今日も看板がある。


そこには「生活相談・記録整理・呪詛(じゅそ)鑑定」と書かれていた。


下には「法律判断(ほうりつはんだん)代理交渉(だいりこうしょう)はできません」と貼ってある。


灯里は受付机で予約メモを確認しながら、隣の古い書類棚を見た。


棚の上には、水晶と結界石(けっかいせき)と、用途の分からない銀色の板が積まれている。


どれが文房具で、どれが魔法道具なのか、最近はもう考えるのをやめつつあった。


入口のベルが鳴った。


一度。


それから、遠慮がちにもう一度。


「どうぞ」


灯里が声をかけると、ドアがゆっくり開いた。


入ってきたのは、背の高い男子学生だった。


年齢は二十歳を少し過ぎたくらい。


黒いリュックを片方の肩にかけ、片手に薄い手帳を持っている。


服装は普通の大学生なのに、目の下だけが妙に疲れて見えた。


「予約していた、岸本悠真(きしもとゆうま)です」


「はい。お待ちしていました。こちらへどうぞ」


悠真は椅子へ座ったが、背もたれにはもたれなかった。膝の上で手帳を握り、すぐには話し出さない。


奥の机にいた有瀬玲(ありせれい)が、湯呑みを置いた。


「まず、何に困っているかを言え。長くなくてよい」


有瀬の声はいつものように静かだった。


悠真は何度か息を吸って、やっと言った。


「家族の世話を断れなくて、大学に行けなくなってきたんです」


言ってしまったあと、悠真はすぐに視線を落とした。


「でも、家族の頼みごとを断る相談って、変ですよね」


悠真は、手帳の角を親指で押さえた。


「母も大変だし、祖母も悪いわけじゃないし、弟もまだ中学生で……僕が冷たいだけかもしれなくて」


灯里は、その言葉が机の上に落ちるのを感じた。



冷たい。



相談者は、自分を責める言葉を先に持ってくる。



奈央も、美帆もそうだった。



「変じゃないと思います」


灯里は、できるだけ急がずに言った。


悠真は少しだけ顔を上げた。


有瀬がうなずく。


「よい。己を裁く前に、荷の数を数えよ」


「つまり、自分が悪いかどうかを決める前に、何が起きているか見ましょう、です」


灯里が訳すと、有瀬は少し不満そうに眉を動かした。


「私の言葉も分かりやすいであろう」


「荷の数、は分かります。でも裁くとか言われると、ちょっと重いです」


悠真が、ほんの少しだけ笑った。


その笑いはすぐ消えたが、肩の力は少し抜けたように見えた。


「手帳、見せてもらってもいいですか」


「はい」


悠真は手帳を開いた。


灯里は、最初、大学生らしい予定表を想像していた。


授業名、サークル、アルバイト、課題の締切。


そういうものが並んでいると思っていた。



実際には、違った。



手帳の余白が、ほとんど残っていなかった。


大学の予定の横に、家の用事が小さな字で入り込んでいる。


午前と午後の隙間。


移動時間の横。


授業名の下。


本来なら空いているはずの白い部分に、短いメモが重なっていた。


一つひとつは、手帳に書けば収まるくらいの用事だ。


けれど、その細い字が一週間分続くと、紙面全体が息苦しく見えた。


灯里が最初に思ったのは、予定が多い、ではなかった。



ちゃんと書いている。



これだけ細かく、忘れないように、家が止まらないように、書いている。


「これ、すごくちゃんと管理してますね」


思わずそう言うと、悠真は驚いたように顔を上げた。


「え」


「手帳、かなり丁寧です。何を忘れちゃいけないか、ちゃんと分かるようにしてる」


灯里は、もう一度ページを見た。


「でも、悠真さんの予定というより、家の予定表になってますね……」


灯里が言うと、悠真は困ったように笑った。


「でも、家のことなので。僕が書いておかないと、誰が何をするか分からなくなるんです」


そう言ってから、悠真は少し迷うようにスマホを見た。


「手帳に書いてあるのは、僕が忘れないようにしてる分だけで。頼まれるのは、こっちの方が多いです」


悠真はスマホを机に置いた。


「家の用事に関係するところだけですけど」


画面には、短いメッセージがいくつも並んでいた。


『今日だけお願い』


『悠真が一番分かってるから』


『弟のご飯だけ見て』


『お母さん、今日帰り遅い』


『お兄ちゃんなんだから助けて』


一つひとつは、乱暴ではなかった。


命令でもない。脅しでもない。むしろ、家族の中でよくある頼みごとのように見える。


だからこそ、灯里は少し息を詰めた。


強い言葉ではないのに、同じ人へ向かって何度も積まれている。


「一週間分だけ、書き出してみますね」


灯里は白い紙を出し、横に曜日を書いた。


縦に「大学」「祖母の予定」「家事」「弟」「睡眠」「課題」と書き込む。


悠真が説明するたび、灯里は一つずつ予定を書いた。


通院まわりの予定。


薬や買い物の用事。


家事。


弟の食事。


家族間の連絡。


授業。


課題。


睡眠。


書き終えるころには、紙の上で「睡眠」と「課題」の欄が、ひどく狭くなっていた。


灯里はペンを止めた。


「これ、悠真さんが冷たいかどうかの話じゃないです」


「でも、家族なので」


「家族だから、誰がどれだけ動いているか見えにくいんだと思います」


悠真は返事をしなかった。


代わりに、窓際の結界石がかすかに音を立てた。



ちり、と小さく。



灯里はそちらを見た。悠真の手首のあたりに、白いものが見えた気がした。



糸、ではない。



もっと柔らかい。紐のようなものだ。


家族LINEの「今日だけお願い」という文字から、細い白い紐が伸びている。


手帳の「薬」「夕食」「洗濯」という文字からも、同じような紐が伸びている。


一本ずつは、怖くない。


黒くもない。むしろ、温かそうに見える。


けれど、それが何本も重なると、悠真の手首は動かしにくそうだった。


灯里は思わず、悠真の手首を見つめた。


悠真は自分の手首を見た。


もちろん、普通の目には何もない。



「誰かが悪いと言うているのではない」


有瀬の声は、少し低くなった。


「柔らかいものは、痛いと言いにくい。家族の頼みなら、なおさらだ」


灯里は、有瀬の言葉を一度頭の中でほどいた。


「悪意があるお願いじゃないから、断ると自分がひどい人みたいに感じる、ということだと思います」


悠真は、ゆっくりうなずいた。


「母は、本当に大変なんです。夜勤もあるし、祖母のことも心配してるし」


悠真は、自分の手帳へ目を落とした。


「弟も、僕がやってることを全部知ってるわけじゃなくて」


「はい」


灯里はうなずいた。


「だから、誰が悪いかを決めるより、何がどこに集まっているかを見た方がいいと思います」


「見た方がよいなら、盤が要る」


有瀬が立ち上がった。



「盤?」


灯里が聞き返す前に、有瀬は奥の棚へ向かった。



棚の上に積まれていた銀色の板を一枚取る。


薄い。


タブレット端末くらいの大きさだが、縁は古い鏡のような銀で、角が一つ欠けている。


盤面には細いひびが走り、そのひびの奥に青白い光が残っていた。


分掌盤(ぶんしょうばん)だ」


有瀬は当然のように言った。

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