その退去費、たぶん高すぎです(4)
全4回構成の最終回です。
美帆の顔がこわばる。
「管理会社からです……!」
灯里の胸も少し跳ねた。
奈央のスマホを思い出した。
あのときも、通知ひとつで人の呼吸が変わった。
「開けそうですか?」
美帆はうなずいた。
画面には、短いメッセージが並んでいた。
『本日中に同意いただけないと、精算が遅れます』
『皆様この内容でご精算いただいています』
『お忙しいと思いますが、早めにご返信ください』
美帆の指が、返信欄へ動いた。
「どうしよう。遅れたら困るのかな。次の家の費用もあるし、会社も始まったばかりで……」
指先が送信欄へ近づいた瞬間、画面の上に透明な薄い膜が出た。
ぷに、と美帆の指が弾かれる。
「えっ」
「即答封じの結界だ」
有瀬の声は静かだった。
「今の、何ですか!?」
美帆がスマホを落としそうになる。
灯里は急いで手を添えた。
「すみません、びっくりしますよね。名前は怪しいですけど、今すぐ一人で返事しなくていい、という合図です。押すかどうかを奪うものじゃなくて、一回止まるためのやつです。たぶん」
「そんな合図、出るんですね……」
「この相談所では、たまに出ます」
膜はすぐに消えた。
灯里は、メッセージの文字を見た。
『本日中』
『皆様』
その二つが、美帆の背中を押している。
急いで同意しろ、と言っているように見える。
けれど、今ここには見積書がある。写真がある。契約書がある。相談窓口に聞くという選択肢がある。
灯里はゆっくり言った。
「今すぐ同意するかどうかは、ここで決めなくていいです。まず、内訳と写真を確認して、相談窓口にも聞いてから返事をします、と伝えられますか?」
「そんなこと、言っていいんですか?」
「言い方は短くしましょう。相手を責める内容じゃなくて、確認してから返答します、というだけです」
有瀬がうなずく。
「長い詠唱は要らぬ。短く、逃げ道を開ける」
「詠唱じゃなくて返信です」
灯里はメモ帳に、送る内容ではなく、言うことの要点だけを書いた。
『内訳と写真を確認する』
『相談窓口にも確認する』
『その後に返答する』
「文章は美帆さんの言葉で大丈夫です。私たちは代わりに作りません」
美帆は何度か息をした。
それから、ゆっくり入力した。
『退去費用の内訳と写真を確認したいです。住まいの相談窓口にも確認してから返答します。』
送信ボタンの上で、指が止まる。
「怖いです」
美帆は小さく言った。
「でも、送ります」
送信音が鳴った。
相談所の中が静かになる。
十秒。
二十秒。
三十秒。
灯里は、何も起きない時間がこんなに長いことを初めて知った。
やがて、スマホが震えた。
美帆は目をぎゅっと閉じてから、開いた。
『確認後で構いません。内訳資料を送付します』
それだけだった。
美帆は画面を見たまま、ぽろっと涙をこぼした。
「今日中に、払いますって言わなくてよかったんですね……!」
灯里は胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
「よかったです。まだ何かが決まったわけじゃないですけど、今日一人で全部決めなくてよくなりました」
有瀬は机の上の見積書を指で軽く押さえた。
「部屋は逃げぬ。逃げ道を塞ぐのは、今日中に決めろという言葉だ」
今度は、灯里にも意味が分かった。
美帆も、分かったらしい。
「急がされたから、怖かったんですね」
「うむ。恐怖は期限を好む」
「怖い言い方ですけど、分かります……!」
その後に決めたことは、派手ではなかった。
翌日、美帆は消費生活センターか住まいの相談窓口へ連絡する。
見積書、契約書、特約部分、入居時写真、退去時写真、今日撮った写真、管理会社とのメッセージを持っていく。
必要なら、法律相談を案内してもらう。
管理会社には、内訳資料を受け取ってから返答する。
相談所は、代わりに交渉しない。
相手を懲らしめるわけでも、請求を魔法で消すわけでもない。
けれど、美帆の声は来たときよりまっすぐになっていた。
「私、部屋を新品に戻せなかったから悪いんだと思ってました」
有瀬は静かに首を横に振った。
「人が住めば、部屋には時間が残る。時間まで一人で背負う必要はない」
灯里は、その言葉を少し考えた。
有瀬の言い方は、まだ少し大きい。
けれど、今日の美帆には届く気がした。
「全部自分のせいだと思う前に、写真と契約書を誰かに見せる、ですね」
「はい」
美帆は、きゅっとスマホを握った。
「明日、ちゃんと相談してきます。今日、ここに来てよかったです」
そう言って美帆は帰っていった。
美帆が帰ったあと、相談所はまた静かになった。
窓の外には、北千住の夜が広がっている。駅前の灯りは明るく、七階の相談所だけが少し別の時間に浮いているようだった。
灯里は机の上を片づけながら、ふと笑った。
「有瀬さん、最初に部屋ごと戻そうとしたの、本気でした?」
「半分だ」
「半分は本気だったんですか」
「困っている者がいる。壁一枚で済むなら安いものだ」
「だめです。証拠が変わります」
「覚えた。直せるものでも、直してよいとは限らぬ」
「はい。かなり大事です」
有瀬は、戻ったばかりのガラスのコップを見た。
「美帆は、部屋を時戻しせよと命じられていたわけではないのだな」
「そうですね」
灯里は机に残ったメモを見た。
『原状回復』
『本日中』
『皆様この内容で』
「原状回復は、それだけで悪い言葉じゃないです。でも、一人で読むと『部屋を新品に戻せ』に見えることがあるんだと思います」
有瀬は黙って聞いていた。
「そこに『本日中』と『皆様この内容で』が重なると、今すぐ自分だけ払わなきゃいけない気がする。写真も契約書も誰にも見せないまま、全部自分のせいにしそうになる」
灯里はメモの端をそろえた。
「『全部あなたのせい』に見せる言葉のせいですね」
有瀬は満足そうにうなずいた。
「時戻し請求の呪いだな」
「いま分かりやすくしたのに、魔法用語で包み直さないでください」
「では、全部あなたのせいに見せる呪い」
「それです。今日はそれでお願いします」
灯里のスマホが震えた。
画面を見ると、藤野奈央からのメッセージだった。
『この前はありがとうございました。同じ大学の先輩が、相談所のことを聞きたがっています。紹介してもいいですか?』
灯里は画面を有瀬に見せた。
有瀬は短く言った。
「評判とは、風のように漏れるものだな」
「口コミです」
「くちこみ」
「魔法用語みたいに復唱しないでください」
灯里は返信欄を開いた。
怪しい相談所なのは、今も間違いない。
けれど、困っている人が来る場所としては、少しだけ信用してもいい気がしていた。
『相談内容によります。急ぎなら、ベルを二度鳴らしてください』
灯里はそう打ってから、送信した。
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