その退去費、たぶん高すぎです(3)
全4回構成の3回目です。
三人は、北千住から電車で少し移動した。
美帆が住んでいたワンルームは、五反野駅から歩いて十分ほどの住宅街にあった。物件名は古いプレートに小さく書かれていて、夜になる前の空の下で、外壁は少しだけくすんで見えた。
部屋は空だった。
家具のなくなったワンルームは、思ったより広く、思ったより寂しい。
カーテンを外した窓から、夕方の光が斜めに入っている。床には小さなへこみがあり、壁紙には家具を置いていた跡が薄く残っていた。水回りには、長く使った部屋らしいくすみがある。
汚い部屋ではなかった。
ただ、三年分の生活があった。
美帆は玄関に立ったまま、小さく言った。
「私、ここで卒論も書いたんです。就活の面接も、ここでオンラインで受けて。体調悪い日もあって、掃除できなかった日もあります。でも、普通に住んでたつもりでした」
灯里はスマホを構えた。
「普通に住んでいたことも、写真に残しましょう」
「普通に住んでいたことを、写真に……?」
「はい。全部きれいに見せるためじゃなくて、どこに何があるのか、相談窓口の人が見られるようにするためです」
灯里は撮影する場所を声に出した。
「壁全体。壁紙の跡の近く。床のへこみ。水回り。設備。見積書に出ている場所と、対応させます」
美帆もスマホを出した。
「私も撮ります」
「そのほうがいいです。美帆さんのスマホに残るのが大事なので」
有瀬は壁の前に立った。
指先が、壁紙に触れそうな距離で止まる。
灯里は嫌な予感がした。
「有瀬さん?」
「この壁紙一枚くらいなら、古い時間を少し剥がせるかもしれぬ」
「だめです」
灯里の声が少し強くなった。
美帆がびくっとする。
灯里は声を落として言い直した。
「すみません。でも、だめです。ここは直す場所じゃないです。記録する場所です。今、魔法で壁を変えたら、元の状態が分からなくなります」
有瀬は壁を見たまま、静かに言った。
「戻せるかもしれぬものを、戻さぬのか」
「戻しても、退去費の問題は解決しません。むしろ、写真も説明も変になります。今日は、何があるのかを残す日です」
有瀬は手を下ろした。
「この世界では、直せることと、直してよいことが別なのだな」
「はい。かなり別です」
美帆は二人を交互に見た。
「えっと……魔法、なんですか?」
灯里は一瞬固まった。
説明できる言葉を探したが、うまく見つからない。
有瀬は当然のように言った。
「職務上の可視化だ」
美帆はぽかんとして、それから少し笑った。
「よく分からないですけど、壁を勝手に直さないなら大丈夫です」
灯里はうなずいた。
壁紙の写真を撮るとき、有瀬が水晶の小さな欠片を取り出した。相談所から持ってきていたらしい。
欠片を壁紙の写真のそばにかざすと、スマホ画面の中の壁に、薄い年輪のようなものが浮かんだ。
灯里には、古い木の断面みたいに見えた。
一番外側は、美帆がここで暮らした三年分の色。
その内側に、もっと古い時間の層がある。
前の住人かもしれない。さらに前の住人かもしれない。壁紙そのものが古くなっていく時間かもしれない。
有瀬は言った。
「この染みは、美帆ひとりの影ではない」
美帆は画面を見つめた。
「私だけのせいじゃ、ないんですか」
灯里はすぐには答えなかった。
ここで言い切ってはいけない。
「その可能性を、確認する材料にはなります。だから写真を残して、見積書のどの項目と対応しているか、相談窓口で見てもらいましょう」
「はい」
美帆の返事は、来たときより少しだけ強かった。
相談所に戻るころには、外は暗くなっていた。
有瀬の机に、契約書、見積書、写真、スマホのメッセージが並ぶ。
有瀬が指を軽く鳴らした。
付箋の束が、机の上でふわりと浮いた。
美帆が椅子の背に手をかけた。
「えっ。今、浮きましたよね? 紙、浮きましたよね!?」
「浮きました」
灯里は、否定するのをあきらめた声で答えた。
「大丈夫です。いや、大丈夫ではないんですけど、少なくとも美帆さんの書類を書き換えたりはしません」
「今度は何ですか」
「証拠整列の事務魔法だ」
「事務に魔法を混ぜないでください」
灯里が止める前に、付箋は契約書、見積書、写真、メッセージの横へ一枚ずつ貼りついた。
美帆は、浮いた付箋と有瀬の指先を交互に見た。
「あの、本当に魔法なんですね……」
「たぶんそうです。私もまだ毎回びっくりしてます」
ただ、書かれている言葉がよくない。
『時の責任』
『箱詰め請求』
『壁の古傷』
『急かし文』
美帆は困った顔で付箋を見た。
「……これ、相談窓口に持っていくんですか?」
「このままは持っていきません」
灯里は慌ててペンを取った。
『契約書の特約部分』
『見積書の内訳』
『入居時写真・退去時写真』
『管理会社とのメッセージ』
「魔法で新しい証拠を作るんじゃなくて、もうあるものを分けるだけです。言葉は、普通に直します」
有瀬は少し不満そうだった。
「箱詰め請求は分かりやすいと思うが」
「分かりやすくないです」
灯里はパソコンで、新しいフォルダを作った。
『退去費用_鷺沼美帆_確認用』
その中に、日付ごとの写真、見積書、契約書の特約部分、管理会社とのメッセージを分けていく。
「フォルダ名に名前を入れていいのか」
有瀬が聞く。
「この相談所内の整理用です。外に送るときは、必要な範囲で確認します」
「現代の記録術は、細かな作法が多い」
「魔法のほうが細かそうですけど」
「魔法は、間違えると爆ぜるだけだ」
「十分怖いです」
美帆は見積書を見ながら、眉を寄せた。
「クロス全面張替え、床補修一式、特別清掃……。一式って書かれると、何が入ってるのか分からないですね」
「そこを聞けるようにしましょう」
灯里はメモに書いた。
『内訳の分かる資料を確認する』
『写真と見積書の項目を対応させる』
『契約書の特約部分を相談窓口で確認する』
「このメモは、あくまで相談に持っていくためのメモです。これをそのまま相手に送る文書にはしません」
有瀬が顔を上げる。
「そうだな非弁結界だ」
「はい、非弁結界です」
灯里は落ち着いて続けた。
「でも、美帆さんが自分で『内訳を確認したいです』って伝えることはできます」
「自分で……」
美帆はスマホを握った。
そのとき、スマホが震えた。




