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その退去費、たぶん高すぎです(2)

全4回構成の2回目です。

割れたコップを元へ戻した有瀬玲(ありせれい)は、相談者の言葉を聞いて、同じ調子でうなずいた。


「なるほど。ならば部屋ごと時戻(ときもど)しを――」


「しません」


三枝灯里(さえぐさあかり)はすぐに止めた。


「コップと部屋を同じ扱いにしないでください。部屋は証拠も契約も人の生活も絡みます。魔法で直したら、話がややこしくなります」


有瀬は、少し不満そうに指を下ろした。


「まだ何もしておらぬ」


「しようとしましたよね」


「相談者が新品を求められていると言った」


「求めているのは相談者さんじゃなくて、たぶん相手側です。まず話を聞きます」


灯里は深呼吸して、来客用の椅子を引いた。


女性は、紙袋を抱えたまま立ち尽くしている。年齢は二十四、五歳くらい。薄いベージュのコートに、きちんとした通勤用の鞄。目元だけが、何日も寝不足のように赤かった。


「すみません。座ってください。お水、出します」


「ありがとうございます……」


女性は椅子に座ると、紙袋を膝に置いた。袋の口から、退去費用の見積書らしい紙が少しだけ見えた。


「まず、何に困っているかを教えてください。全部うまく説明しなくて大丈夫です」


灯里が言うと、女性は両手で紙袋を握った。


「退去した部屋の費用が、高すぎるんです。二十四万円って言われて……。でも、私が汚したなら払わなきゃいけないのかなって。管理会社の人に、皆さん払っていますって言われて、今日中に同意してくださいって」


「二十四万円……」


灯里は思わず声を出した。


女性の肩が小さく揺れる。


「すみません。驚いただけです。責めてるわけじゃないです」


「いえ……私も、金額を見て怖くなって」


有瀬が机の向こうで手を差し出した。


「名を聞こう」


鷺沼美帆(さぎぬまみほ)です。二十四歳です。四月から働き始めて、職場に近いところへ引っ越したんです」


「学生のころの部屋を出たのだな」


「はい。ワンルームです。三年住んでいました」


美帆は紙袋からクリアファイルを取り出した。


中には、賃貸借契約書、退去費用の見積書、入居時に撮った写真、退去時にスマホで撮った写真が入っていた。管理会社とのメッセージも、スマホに残っているという。


灯里は少し安心した。


何も残っていないわけではない。


怖くても、美帆は紙を捨てずに持ってきた。


「契約書と見積書を見せてもらっていいですか。ここでは、払うか払わないかは決められません。法律判断も、代わりの交渉もできません。でも、相談窓口に持っていけるように整理することはできます」


灯里は壁の貼り紙を指さした。


『法律判断・代理交渉はできません。必要な場合は専門窓口へつなぎます』


美帆は貼り紙を読んで、小さくうなずいた。


「決めてもらえる場所じゃないんですね」


「はい。でも、一人で今日中に決めなくていいように、材料を並べることはできます」


美帆の指が、クリアファイルから少し離れた。


「それだけでも、助かります……!」


有瀬は見積書を受け取り、机の上に置いた。


文字が並んでいる。


『クロス全面張替え』


『床補修一式』


『特別清掃』


『設備交換』


『諸経費』


灯里には、ただの印刷に見えた。


けれど有瀬は、目を細めた。


「重いな」


「紙ですけど?」


「字が重い」


「また分かりにくい言い方を……」


灯里が言いかけたとき、見積書の『全面』と『一式』の文字が、ほんの一瞬だけ黒く沈んだ。


インクが濃くなったようにも、紙に影が落ちたようにも見える。


有瀬は指先でその二つの言葉を示した。


「見よ。『全部』と『まとめて』の呪文だ。細かいものを箱に入れ、箱ごと重さを量れと言っている」


「えっと……つまり、どこが何円なのか分かりにくい、ってことですか?」


「だいたいそうだ」


「最初からそう言ってください」


灯里はメモ帳を開いた。


『見積書の内訳を確認する』


まず一行目にそう書く。


美帆が不安そうに見ていた。


「私、部屋をすごく汚したわけじゃないと思うんです。でも、家具の跡とか、壁紙のうっすらした汚れとかはあって……。三年も住んだら、そうなりますよね? でも、それを言うと、言い訳みたいで」


「言い訳かどうかは、今ここで決めなくていいです」


灯里は自分で言ってから、有瀬を見た。


大丈夫だろうか、と確認する視線だった。


有瀬はうなずく。


「よい。今は裁く場ではない。見える形にする場だ」


美帆の表情が、少しだけゆるんだ。



契約書を開くと、細かい字がぎっしり並んでいた。


灯里は、スマホで「退去費用 原状回復 通常損耗」と検索する。公的な資料や相談窓口のページが出てきた。


見出しを読みながら、灯里は声に出した。


「えっと、原状回復(げんじょうかいふく)って、部屋を新品に戻すって意味とは限らないみたいです。普通に住んでいて古くなる部分、通常損耗(つうじょうそんもう)とか経年変化(けいねんへんか)って考え方があって……」


「時間にも責任の所在があるのか」


有瀬が感心したように言った。


「言い方は変ですけど、近いです。時間がたてば自然に古くなるものまで、全部入居者のせいとは限らない、という考え方です」


美帆が顔を上げる。


「じゃあ、払わなくていいんですか?」


灯里はすぐに首を横に振った。


「そこは、ここでは言えません。契約書の特約とか、傷の原因とか、個別に確認が必要だと思います。だから、相談窓口に見せられるように、写真と見積書をそろえましょう」


「はい……!」


有瀬が契約書の一部を指した。


「この細かい文字の群れは何だ」


灯里がのぞきこむ。


「特約ですね。ハウスクリーニング費用とか、退去時の負担について書いてあります」


「特約。小さな文字で別の縄を結ぶ術か」


「なんか、怖い言い方ですけど、ここは大事です。これも相談窓口に見せましょう」


灯里は付箋を一枚貼った。


『契約書の特約部分』


美帆は、その付箋をじっと見た。


「一人で読んでると、全部私が悪いって書いてあるみたいに見えたんです」


「分かります。文字が多いと、こっちが負けた感じになりますよね」


「はい……! そうなんです。読み終わる前から、もう無理って思って」


有瀬は淡々と言った。


「長い文は、弱った者の目には壁になる。壁に見えたら、扉を探す者も減る」


灯里は少し考えた。


「えっと、今のは……一人で全部読もうとしなくていい、という意味ですか?」


「そうだ」


「だったら、そう言ってください」


「一人で全部読むな」


「急に直球ですね」


美帆が、そこで初めて少しだけ笑った。



美帆は、明日の午前に鍵を返す予定だった。


「今日の夜までなら、部屋にもう一度入れます。写真、足りないですよね」


スマホの写真を確認すると、部屋全体は写っているが、見積書の項目と対応させるには少し弱かった。壁紙の一部、床のへこみ、水回り、設備の写真が足りない。


有瀬が立ち上がる。


「現地を見る」


「え、行くんですか?」


美帆が驚いた。


灯里も驚いた。


「行くんですか」


「写真だけでは、時間の層が薄い」


「現地で写真の撮り忘れを減らす、という意味なら分かります」


灯里はすぐに壁の貼り紙を見た。


「でも、管理会社さんと会って話すのはだめです。交渉もしません。あくまで、美帆さんが相談窓口に持っていく記録をそろえるためです」


有瀬は渋々うなずいた。


「非弁結界か」


「はい。現地へ行っても、法律判断と代理交渉はしません。今日は、写真と記録をそろえるだけです」


そのとき、書棚の端で紙が一枚かさりと鳴った。


灯里が振り向くと、「住まいの相談」と書かれたパンフレットが、棚から少しだけ前に出ていた。その隣の消費生活相談のパンフレットも、負けじと震えている。


有瀬は当然のように言った。


「紙が名乗り出ておる」


「なんの魔法なんですか、これ…」


灯里はパンフレットを二枚抜き取った。


「どこが合うかは、公式の情報を確認してからです。今日は、相談先に見せられる材料をそろえましょう」


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