その退去費、たぶん高すぎです(1)
この相談は全4回構成です。
三枝灯里は、結局、有瀬生活相談所で働くことになった。
理由は、いくつかある。
まず、時給がいい。
かなりいい。
求人票に書かれていたのは、『時給1,650円。交通費規定支給』だった。灯里の感覚では、「この条件で本当に大丈夫ですか」と聞き返したくなる高さだった。通学定期、教材費、スマホ代、買いたかったあの服、あの靴、あの鞄、を頭の中で並べると、怪しさを眺める目は少しだけ甘くなる。
勤務は週三日。
平日は大学の授業が終わったあと、十七時から二十一時まで。土曜は十三時から十八時まで。試用期間中なので、シフトは無理をしない範囲でよい、と有瀬玲は言った。
仕事内容も、求人票に書かれていた通りではあった。
受付をして、書類を整理して、検索を補助して、相談記録をまとめる。
ただし、求人票に書かれていなかったこともある。
有瀬は、どうやら本当に魔法使いらしい。
いや、灯里はまだ全部を信じたわけではない。
顔のいい占い師、手品がうますぎる怪しいコンサル、あるいは現代日本に適応し損ねた演劇関係者。候補はいまも残している。残しているのだが、空中で止まった付箋を見た。机の上の水晶が相談者の声に合わせて淡く光るところも見た。
本当に魔法使いなんだろうか?そんなことがあるのか?疑心暗鬼だが、灯里はとりあえず無視することにした。
それを差し置いても、この相談所、相当に怪しい。
北千住の古い雑居ビル七階。入口の看板には「生活相談・記録整理・呪詛鑑定」とあり、その下に「法律判断・代理交渉はできません」と貼ってある。
室内には、古い事務机と応接セット。黒いファイルボックス。公的な相談窓口のパンフレット。なぜか本物っぽい水晶。
現代の相談窓口としては、だいぶ不安である。
この前、有瀬が「この文明の非弁結界は堅いな」と言いながら、壁の貼り紙をまじまじと見ていた。
スマホで調べたところ、「非弁結界」とは、非弁行為、つまり弁護士以外が法律相談をすることを防ぐための結果、いや、法律のことだ。法律相談は弁護士にしかできない、ということだ。
なので本当に相談だけ。法律相談も、代理交渉も、できない。
なのになぜか客が来る。時給も高い。もしかして、この有瀬という人が魔法を使ってるんじゃないだろうか。
そんな疑問が出てきたが、灯里はそれも無視することにした。だって時給が良いから。
有瀬自身の現代生活はだいぶ危うい。
コピー機を「複写陣」と呼ぶ。
電子レンジの残り時間表示を見て、「三十秒後に爆ぜる予告か」と身構える。
スマホ決済の画面を見て、「貨幣を見せずに供物を差し出すとは、信仰に近い」と言う。
そのたびに灯里は言い直す。
「コピー機です」
「温めてるだけです」
「支払いです。宗教じゃないです」
有瀬は、なぜか納得したような顔でうなずく。
「この国の民は、日常的に高位術式を扱う」
「たぶん家電です」
「家電とは、家庭に置く魔導具の総称か」
「もうそれでいいです……」
灯里は、相談記録ノートに日付を書きながらため息をついた。
働き始めて数日。
怪しさには、少し慣れた。
魔法には、まったく慣れない。
その日の夕方も、相談所は静かだった。
窓の外では、北千住の街に明かりが増え始めている。駅へ向かう人の流れは遠くからでも分かり、車の音と、どこかの店の呼び込みの声が、七階の窓まで薄く上がってきた。
灯里は受付の机で、相談記録のファイル名を整えていた。
有瀬は奥の机で、湯呑みではなく透明なガラスのコップを手にしている。
「珍しいですね。湯呑みじゃないんですか」
「この器は水の色がよく見える」
「お茶ですけど」
「茶も水の一族だ」
「一族?」
聞き返した瞬間、有瀬の指先がすべった。
コップが机の端を越えた。
灯里は反射的に立ち上がる。
「危ない」
コップは床に落ち、乾いた音を立てて割れた。
透明な破片が、薄い茶色の水たまりの中に散る。
「掃除します。動かないでください、破片が――」
灯里が言い終える前に、有瀬が指を鳴らした。
ぱちん、と小さな音がした。
割れた破片の輪郭に、青紫の光が走る。
水たまりが床から浮き上がった。
破片が、ひとつずつ空中で向きを変える。
灯里は息を止めた。
落ちて、割れて、散らばったものが、落ちる前の形を思い出すみたいに集まっていく。
水は細い帯になってコップの中へ戻り、最後の小さな破片が音もなくはまった。
次の瞬間、ガラスのコップは、何事もなかったように机の端に立っていた。
机の端に。
落ちる前と同じ場所に。
「…………」
灯里は、床を見た。
濡れていない。
机を見た。
コップがある。
有瀬を見た。
有瀬は平然としていた。
「小物なら、時を少し巻き戻せる」
「それは、先に言ってください」
声が少し上ずった。
灯里は自分でも声が大きくなったと分かった。
「できることの範囲が分からないと怖いです。コップを戻せるなら、もっと大きいものも戻せるんですか。机とか、壁とか、人とか」
「人体は向かぬ」
「向かない、だけで済ませないでください」
「契約も戻らぬ。電子記録は、構造が細かすぎる。いまのは直後で、小さく、形が単純な器だったからだ」
「それを最初に説明してください。いま一瞬、私の常識が床に落ちて割れました」
「では戻すか」
「戻さなくていいです。私の常識に勝手に魔法をかけないでください」
有瀬は少しだけ不思議そうに首を傾けた。
「壊れたものを直すのは、悪いことではあるまい」
「場合によります。今のコップはいいですけど、相談に関係するものを勝手に変えたらだめです。写真とか、書類とか、部屋とか。証拠が変わったら困ります」
「証拠」
有瀬はその言葉を、古い呪文を聞くように繰り返した。
「うむ。この国では、事実の抜け殻を大切にする」
「証拠って言ってください。急に怖い言い方にしないでください」
灯里は胸を押さえた。
まだ心臓が速い。
魔法は本当にあるのかもしれない。
いや、いまのは、ある。
認めたくないが、さすがにある。
そう思ったところで、入口のベルが鳴った。
一度。
少し間を置いて、もう一度。
有瀬の視線がドアへ向く。
灯里は、コップとドアを交互に見た。
「今度は、普通の相談ですよね?」
「相談に普通も異常もない。困っているなら入れる」
「それはまぁ、そうなんですけど」
灯里が言い返す前に、有瀬が声をかけた。
「入れ」
ドアがゆっくり開いた。
入ってきたのは、二十代半ばくらいの女性だった。肩にかけたトートバッグは重そうで、片手には紙袋を抱えている。紙袋の口から、封筒とクリアファイルと、印刷された写真の端がのぞいていた。
女性は相談所の中を見て、コップのある机と、水晶と、灯里の顔を順番に見た。
それから、今にも泣きそうな声で言った。
「部屋を、新品に戻せって言われてるんです」




