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その求人、たぶん普通じゃないです(2)

全3回構成の2回目です。

入ってきたのは、二十歳前後の女性だった。コートの袖を握りしめ、反対の手でスマホを伏せるように持っている。顔色は悪く、髪はきちんと結ばれているのに、どこかほどけかけて見えた。


「あの、予約していた藤野奈央(ふじのなお)です」


「座れ。水を出す。灯里」


「まだ職員じゃないです」


「水を」


「……はい」


灯里は流し台の横にあった紙コップを見つけ、水を注いだ。奈央は両手で受け取ったが、飲む前にスマホが震えた。


奈央の肩が跳ねる。


「また来た……!」


「また、ですか?」


灯里が聞くと、奈央はスマホを伏せたまま、何度も小さくうなずいた。


「すみません。先に話します。私、炭火酒場(すみびさかば)くろがねの北千住西口店でバイトしてるんです。……辞めたいんです。でも、辞めるなら違約金(いやくきん)を払えって言われていて……!」


「違約金って、バイトでですか!?」


灯里は思わず声が裏返った。


「はい。契約書に書いてあるから、研修費も返せって。代わりの人を連れてこないと辞めさせないって言われています」


「その連絡が、いま来ているのか」


有瀬の声は、さっきまでの面接より低かった。


奈央は何度か口を開きかけて、やっと言った。


「バイト先の店長です。開くのが怖いです。見る前から、また店に来いって書いてある気がして」


「契約書と、その言葉を見せよ」


奈央はスマホを操作した。まず、店長からのメッセージが開かれる。


『今辞めるなら違約金が発生します』

『研修費も返してもらうことになります』

『代わりの人を連れてくるのが社会人としての責任です』

『シフトに穴を開けるなら損害賠償(そんがいばいしょう)も考えます』

『このままだと親御さんと学校にも連絡します』


次に、折り目のついた契約書の写真。


灯里は眉を寄せた。


「うわ……」


声に出てしまい、灯里は慌てて口を押さえた。


文章は丁寧だった。丁寧なのに、読んでいるだけで喉が狭くなる。


「これは呪詛契約(じゅそけいやく)ではない。もっと面倒だ」


有瀬は、はめていた薄い手袋を外した。


「普通の雇用契約(こようけいやく)に見せかけて、人を怖がらせる言葉を混ぜている」


水晶が、窓際で淡く光った気がした。


契約書の文字の影が、一瞬だけ黒い糸のように伸びる。


そう見えたのは、夕方の反射かもしれない。古い蛍光灯のちらつきかもしれない。


「怖いのは契約書だけではない。店長の言葉が、奈央に『逃げられない』と思わせている」


「待ってください!」


灯里は思わず口を挟んだ。


「いま、黒い糸みたいなの、見えませんでした!? いや、反射かもしれないですけど!」


奈央が、泣きそうな顔で灯里を見る。


灯里は自分の声が大きくなったことに気づき、慌てて言い直した。


「すみません! それより、怖いなら返事しないとまずいんじゃないんですか。店長さん、怒ってますよね?」


奈央が顔を上げた。


有瀬は首を横に振った。


「逆だ。怖いときほど、すぐ返事をするな。急がせる言葉は、人を考えられなくする」


「……あ、そういうことですか。今すぐ一人で動かない、ってことですね!」


灯里はうなずいたものの、次に何をすればいいかは分からなかった。


「で、でも、こういうときって、どこに聞けばいいんですか?」


「小型水晶板で探せ。労働、相談、アルバイト、退職」


「スマホで検索、ですね。はい」


灯里は言われた通りに打ち込んだ。公的な相談ページがいくつか出てくる。どのページも、アルバイトのトラブルや労働条件について相談できる窓口を案内していた。


「出ました。公的な労働相談の窓口と、学生相談っぽいページがあります」


「よい。奈央、今日することは三つだ」


有瀬は指を一本立てた。


「その画面を残す」


二本目。


「いつ何を言われたか、短く書く」


三本目。


「明日、学校か公の窓口へ見せる」


「三つだけで、いいんですか……?」


「今夜はそれ以上するな。こちらは店長へ連絡しない。退職代行もしない。払うか払わぬかも決めぬ」


「決めてくれる場所じゃ、ないんですね」


奈央の声は不安そうだった。


灯里は壁の貼り紙を見た。


法律判断・代理交渉はできません。


「えっと、この貼り紙の話ですか。ここでは決めないで、詳しいところに聞く、って意味で……合ってますか?」


有瀬は短くうなずいた。


「そうだ。非弁結界(ひべんけっかい)だ。面倒だが、よい結界でもある」


「非弁……結界?」


聞き返したが、いまは深追いするところではなさそうだった。


奈央の指が、返信欄を開きかける。


その瞬間、またスマホが震えた。


『まだ返事ないけど、逃げるつもり?』

『大ごとにする必要はないから、一度店に来て話そう』


「来いって、来ました……!」


「手を止めよ」


有瀬の声が、静かに落ちた。


奈央の指が止まる。


「でも、返さないとまた怒られて……!」


「長い返答はいらぬ。行く約束もするな。奈央の言葉で、短く言え」


奈央は何度か息をした。


有瀬は画面を見ずに言った。


「『相談窓口に確認します。今日は返信できません』。それだけだ」


灯里は目を丸くした。


「それだけでいいんですか?」


「それ以上は、今ここで決めることではない」


「私が送っていいんですか?」


「奈央が決めることだ」


奈央は小さくうなずいた。


それから、ゆっくり入力した。


『相談窓口に確認します。今日は返信できません。』


灯里は画面を見て、奈央を見た。


「送りますか?」


「……送ります!」


送信音は小さかった。


それでも、部屋の中では大きく聞こえた。


三十秒ほどして、店長から返信が来た。


『いや、そこまで大げさにしなくていい』

『一度話せば分かるから』


さっきまで並んでいた強い言葉が、少しだけ引っ込んでいる。


「あれ。さっきより、弱くなってませんか?」


奈央は画面を見つめたまま、震える息を吐いた。


「なんか……さっきより、少し怖くないです!」


「保存だ」


「スクショ、ですね」


灯里が言うと、奈央は新しいメッセージを保存した。


そのあと決めたことは少なかった。


明日の午前に大学の学生相談へ行く。午後に公的な労働相談窓口へ確認する。必要なら、法律相談につないでもらう。店へ一人では行かない。


それだけだった。


それだけなのに、奈央の顔色は来たときより少し戻っていた。


「ありがとうございます……!」


奈央は立ち上がり、何度も頭を下げた。


「まだ、どうなるか分からないですけど。でも、契約書に書いてあるから全部終わり、じゃないんだって思えました……!」


「一人で返事するな。一人で考えるな。怖い言葉は、誰かに見せるだけで少し小さくなる」


有瀬は机の向こうで腕を組んだ。


灯里は小さくうなずいた。


「それは分かりやすいです」


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