その炎上、たぶん正義だけじゃないです(1)
この話は全3回構成です。通知が止まらない夜の相談から始まります。
北千住の雑居ビルは、午後になると階段の音がよく響く。
三枝灯里が受付机の上で相談票をそろえていると、ドアの鈴が、いつもより硬い音を立てた。
入ってきた女の人は、帽子を深くかぶっていた。年は灯里とそう離れていない。薄いコートの袖口から、スマホを握りしめた指だけが白く見えた。
「あの、SNSが、晒されて、通知が止まなくて、展示会場にもメールが行ったんです」
名乗るより先に、それだけがこぼれた。
灯里は一瞬、返事が遅れた。
晒しと展示会場。その二つの言葉が同時に机の上へ投げ出されたようで、どこから受け止めればいいのか分からない。
奥の机で帳面を閉じた有瀬玲が、顔を上げる。整いすぎた顔で、言葉だけが妙に古風だった。
「座れ。息を吸う場所が先だ」
「あ、はい。こちらへどうぞ」
灯里は椅子を引いた。
女の人は少し迷ってから、スマホを伏せた。手はまだ端を押さえている。置いたら、また何かが来るのを止められなくなると思っているような持ち方だった。
「まず、お名前と、いま一番困っていることを教えてください。急がなくていいです」
「水上澪です。困っているのは、週末の展示を取り下げるべきなのか、今すぐ反論したほうがいいのか、もう分からないことです」
「展示というのは、澪さんの作品の展示ですか」
灯里がゆっくり確認すると、澪は一度だけうなずいた。
「はい。絵を描いていて、今度、初めてグループ展に出す予定で。ギャラリーの名前は舟窓っていいます」
「週末のグループ展。場所は舟窓ですね」
灯里はそこで一度、名前と困っていることと展示について、手帳に短く書いた。
「それで、晒されたというのは、作品のことですか?」
「依頼で描いた絵です。完成した絵の一部が勝手に載せられて、別の画像と並べられて。似ている、トレースだ、依頼者を騙したって」
「比較画像が回っているんですね」
「はい。それで、その投稿を見た人たちが、会場にも知らせたって書いていて」
灯里は手帳に、晒し、比較画像、会場への連絡と三つに分けて書いた。
「展示会場にもメールが行った、というのは」
澪は喉を鳴らした。
「こんな人の作品を置くのは危ない、って匿名メールが来たそうです。会場の人も困っていて」
スマホが震えた。
澪の肩も一緒に跳ねた。
「まだ見なくて大丈夫です」
灯里は声を低くした。
「先に、何が起きたかの順番だけ追いましょう。ここまでは、作品の晒しと、会場へのメールですね」
澪は乾いた唇を結んだ。
灯里は手帳の端に、もう一つ空白を作った。
「それで、どうしてここへ来たんですか。予約表には、お名前がなかったので」
「北千住駅で、反論を出そうとしたんです。そしたらスマホが固まって、地図アプリが勝手にここを出しました。有瀬生活相談所って。私、炎上で寝てなくて……おかしくなってるのかもしれません」
灯里はそこで、伏せられたスマホの端を見た。
通知の中身ではなく、来所のきっかけが気になったからだ。
その言葉に合わせるように、ケースと机の隙間で、灰色の羽根のようなものが一瞬だけ散った。
まさか。
そう思ったが、口には出さなかった。ここ数日で、灯里は「気のせい」と「気のせいにしてはいけないもの」の境目が、だいぶ怪しくなっていた。
有瀬は、澪のスマホではなく、澪の手を見た。
「おかしくなった者は、自分の手が燃えていることに気づかぬ。おぬしは気づいて来た。そのまま伏せておけ」
「見るんですか」
「今すぐ全部は見ぬ」
有瀬は、机の端に置いてある黒い石を指で押した。小さな結界石だと聞かされているが、灯里には、少し重いペーパーウェイトに見える日もある。
「火事場で火の粉を手で叩けば、袖に燃え移る」
「火事、ですか」
「似たものだ。声が燃え、名が燃え、触った者まで熱くなる」
灯里は、澪が分かる言葉に置き換えようとした。
「つまり、全部に返信しようとすると、消火じゃなくて燃料になることがある、という意味ですか」
澪の指が、スマホから少し離れた。
「でも、黙っていたら、認めたと思われませんか」
「黙ることと、何もしないことは違う」
有瀬は静かに言った。
「昔、向こうで評判火災を抑えたことがある。宮廷の噂は、薪より速く燃えた。広場の火を手で叩く者から焦げた」
「向こう」
澪が聞き返す前に、灯里は軽く咳払いした。
「有瀬さんの、前の職場みたいな話です」
「職場ではない。戦場と宴会場のあいだだ」
「余計に分からないので、そこはあとでお願いします」
灯里が小声で言うと、有瀬は少しだけ不満そうに眉を動かした。
ただ、灯里もよく考えたら有瀬の過去の話を聞いていない。どうやら本当に魔法は使えるようなのだが、いわゆる異世界転生者なのだろうか?
だとしたら異世界ではどんな生活を?異世界は魔法をみんな使えるのか?疑問は尽きないが、考えるのをやめた。
「評判火災の基本は、火を分けることだ。火元。延焼先。触らぬ火。この三つだ」
澪は伏せていたスマホを、画面が見える向きに置き直した。灯里は通知の文字を読まないように視線を少しずらす。画面がまた震え、通知欄の端から細い灰が吹いたように見えた。
有瀬が指輪に触れた。
光は強くなかった。机の木目の間から、煤のような線がするりと立ち上がり、小さな影になった。
小さな影がだんだんと実体化して、人形のようになった。
丸い目を二つ開け、羽根とも耳ともつかないものをぴこぴこ動かした。
「アステル、火元を嗅ぐですす」
声は高いのに、古い換気扇が回るようなざらつきがあった。
澪が椅子ごと後ろへ下がった。
「え。なに、これ」
「燼導妖精アステル」
有瀬は当然のように紹介した。
「火の道を嗅ぐ。名は仰々しいが、働きは小さい」
「待ってください。有瀬さん、その説明だと絶対に通じません」
灯里は思わず口を挟んだ。
澪の顔色が、さらに悪くなっていた。
「妖精……?」
「ええと、ソニーの試作品ロボット、ということにしてください」
言ってから、灯里は自分でも無理があると思った。ソニーに怒られそうだ。
有瀬が目を細める。
「そにい」
「今はそれでお願いします。未発表の、通知を分類する小型ロボットです」
「小さくないです。しゃべってます」
灯里も同意したかったが、先にアステルが胸を張った。
「アステル、ろぼっとですす。試作のすす。焦げた順なら任せるですす」
澪は目をこすった。
「私、やっぱりおかしくなってる……?」
「寝不足で、試作品ロボットが変に見えている、と思っても大丈夫です」
灯里は、あまり大丈夫ではない言い方になったと自分で思った。とにかく話をそらさないと。
「えっと、有瀬さん!この子が、この子が何をするんですか?」
「こやつは火の種類を嗅ぎ分けることができる」
「つまり、この子が分類してくれるものを、現実の記録に直していけばいいですかね」
「そうだな。アステルに任せればよい」
アステルはスマホの端に鼻先を近づけた。鼻があるのかは分からない。灰色の羽根に見えたものが、通知欄の上で小さな火になった。
「すす。これは灰の火ですす。見ても腹が減るだけですす」
「腹が減る?」
「心の腹ですす。ぐうぐう怒るですす」
意味は分かるような、分からないような言い方だった。
「これは触らぬ火だ」
有瀬が、スマホの画面を見ずに言った。
灯里はうなずきかけて、少しだけ言い直した。
「有瀬さん、それは、今ここで読まない火、という意味で合っていますか」
「うむ。手を出せば、袖が焦げる」
「……つまり、ここでは閉じる、ということみたいです。悪口や同じ文言の便乗投稿は、今読む火ではない、と」
「読まなくていいんですか」
澪の声は、少し震えていた。
「今は読むな、ということだ」
有瀬が短く答えた。
灯里はその言葉を、澪に向けて言い直した。
「全部見る前に、火を分ける、ということだと思います。まず、有瀬さんとアステルが示したものだけ見ます」
アステルは通知欄の灰色の火を、ふう、と吹いた。火は消えなかった。ただ、画面の端で小さく丸まり、灯里にも文字が読めないくらい薄くなった。
「灰は踏まないですす。踏まずに火元を嗅ぐですす」
「えっと、火元ってことは、この炎上の原因を探れってことですかね」
澪は、初めてほんの少しだけ息を吐いた。
「でも、どれが最初なのか、もう分からないです。朝からずっと増えてて」
「そこを嗅ぐですす」
アステルはスマホの上を飛び回った。




