二人だけの空間で
「――密室にて、教師と生徒の二人きり……ふふっ、何とも背徳の香り漂う素敵な状況ですが――さて、何をしましょうか由良先生?」
「いや勉強だよね? あと、密室じゃないから。窓は開いてるから」
「全く、つれない人ですね。そこは是非とも乗っかって頂きたいのですけども」
それから、およそ一週間経て。
何やら意味ありげな笑みで尋ねる少女に対し、少し呆れて答える僕。そんな僕らがいるのは、一年二組の教室――蒔野さんの席にて、僕は前の席の生徒の椅子を拝借しつつ彼女と向かい合っているわけで。……いや、拝借と言っても無許可なんだけど……まあ、大丈夫だよね?
ともあれ、先ほど彼女の言ったように二人きりの状況ではあって。そして、それには一応、それ相応の理由があって。
『――あの、由良先生。もし宜しければ、先生に無理のない範囲で補習を行ってくださいませんか? もちろん手前勝手な申し出であることは承知していますし、先生もお忙しいはずなので無理にとは言えませんが』
数日前、屋上にて告げられた蒔野さんの言葉。補習というのはあの休学期間の、という意味で間違いないだろう。
そして、そういうことなら断る理由もない。彼女が休学していたのは、やむを得ない事情があってのこと――ならば、その分を取り戻すための補習を行ったとて特別扱いにはならないだろう……たぶん。
「……さて、今日はこのくらいかな」
「本日もありがとうございました、由良先生」
それから、暫く経過して。
そう、ポツリと呟く。すると、恭しく頭を下げ謝意を述べる蒔野さん。窓の外は、もうほとんど茜色に染まっていて。
ところで、それはそうと……実際のところ、役に立てたのかな? 僕。一応、僕に色々と聞いてくれてはいたけど……でも、それは僕を立ててくれていた気がして。正直、僕に聞かずとも自分で十分に理解していたような気がして――
「――っ!! 蒔野さん、こっちへ!!」
「…………へっ?」
(……あの、由良先生。一つ、お伺いしたいのですが)
(……うん、おおかた察せられるけど……どうしたのかな、蒔野さん)
(……私達、隠れる必要ありました?)
(……うん、これと言ってなかったかな)
それから、間もなくのこと。
声を潜め尋ねる蒔野さんの問いに、同じく声を潜め答える僕。……うん、ご尤も。別に隠れる必要はなかったんだけど……まあ、反射的に。
さて、そんな僕らがいるのは教卓の中――その狭隘な空間にて、どうにか二人身体を潜め息を潜めているわけで。……うん、ほんとにごめんね、巻き込んじゃって。
――ところで、繰り返しになるけど隠れる必要なんてなく。ほとんど訪れる人もいないであろうこの時間の教室に、生徒と教師が二人きり――確かに、誤解を生みそうな状況ではある。あるのだけども……でも、今回は誰に対しても一応は説明できる理由がある。なので、あんなに慌てて隠れる必要もなかったのだけど――
「……もう帰ったのかな、恭ちゃん」
(…………)
ふと、廊下の方から微かに届く声。そう、声の主は他ならぬ薺先輩。さっき、微かに届いた足音で彼女だと気付いて咄嗟に身を……うん、我ながら気持ち悪いね。足音だけで分かるとか。
さて、そろそろしつこいかもしれないけど、別段隠れる必要なんてない。なかったのだけど……とは言え、流石に今になって出ていくのも些か躊躇われ……いや、些かどころじゃないか。
……ただ、それにともあれ……どうして、先輩がここに? いや、もちろんいちゃいけないわけはないんだけど……ただ、今日は予定があるから先に帰るとメールが来ていたはず……いや、今は良いか。それよりも――
(……その、ほんとにごめ……っ!?)
ごめんね――そう言おうとして、ピタリと止まる。何故なら……再度視線を向けた刹那、そこには息を呑むほどに蠱惑的な笑みでこちらを見つめる少女がいたから。
「……あの、蒔野、さん……?」
そう、呆然と呟く僕。……いったい、どうしたのだろう。彼女のこんな表情、僕は知らな……いや、知っている。この表情は、あの時の――
「――――っ!?」
刹那、思考が――呼吸が止まる。何故なら……不意に僕の右手を取った彼女が、そのまま自身の左胸へと誘って――
「……あの、蒔野さ――」
「……届いていますか? 由良先生」
「……へっ?」
「……私の鼓動、届いていますか? 今、私はこんなにもドキドキしています。こんなにも……吐息さえ絡まるほど近くに、貴方がいる……もう、どうにかなってしまいそうなんです」
「…………蒔野、さん……」
そう、うっとりとした表情で告げる蒔野さん。……うん、分かっている。これが、教え子に抱いちゃいけない感情だということは。それでも……今の彼女は、抗い難いほどの色香を醸し出していて――
そして、僕の手は未だ彼女の胸に――掌から伝わるその柔らかな感触に、鼓膜を破るほどのその鼓動に……そして、今も僕を見つめる疑いようのない愛情を湛えたその瞳に、僕は――
ふと、彼女の顔がぐっと近づく。そして、茫然とする僕の唇へ、彼女の唇が近づいて――
――――トゥルルルル。
「――うわっ!!」
卒然、耳を劈く電子音。ハッと我に返り、すぐさま応答ボタンを押しスマホを耳元へ……いや、危なかった。いや、もはや手遅れかもしれないけど……それでも、流石にあのまま身を委ねるわけには――
……あれ? そう言えば、発信相手を確認して……ないよね。流石に、それどころではなかっ――
『――あっ、恭ちゃん? 私だけど――』
「…………」
再び、思考が止まる。なにかを言っているみたいだけど、途中から脳が認識を放棄して――
『……あの、聴いてる? 恭ちゃん』
「……へっ? あ、はいもちろんです薺先輩! ……その、どうしたのでしょう?」
すると、ややあって怪訝そうな声が届く。……いや、放棄している場合じゃない。とにかく、冷静に、冷静に――
『――うん、今日は先帰るって言ったんだけど、思ったより予定が早く終わって。それで、近くまで来てたし折角だから恭ちゃんがまだ残ってたら一緒に帰ろうと思って学校に戻ってきたの』
「……そ、そうだったのですね。ですが、その、すみません、もう家に帰ってしまいまして……」
『そっか。ううん、謝ることないよ。それじゃ、また明日ね恭ちゃん』
「……はい、薺先輩。また明日……」
そう、どうにか口にする。すると、ほどなく通話が切れて。それから、少し間をおいて慎重に……本当に慎重に、教卓から少しだけ顔を……そして、耳を澄ませつつ窓の方へ視線を向ける。すると、まさに今去り行く薺先輩の後ろ姿が。そして次第に姿が見えなくなり、足音も徐々に小さくなって――
「………………ふぅ」
教卓から身体を出し、深く溜め息を零す。……いや、ほんと危なかった。……ほんと、生きた心地がしな――
「ふふっ、楽しかったですね先生」
すると、そんな僕の心中を知ってか知らずか、言葉通り楽しそうな笑顔でそう口にする蒔野さん。いや、絶対に知ってるよね。まあ、それはともあれ……うん、次回から変えようかな。補習の場所。




