外伝2:Moments/02
世界が、急速に変化していく。
ただ、その変化の中心に……キミがいてくれれば、それでいい。
「千佳? ちょっと、千佳っ!」
真雪は大きくため息をつきながら、リビングの床で転がっている千佳を見下ろし、
「最近いつも床でゴロゴロしてるけど……風邪ひいたって知らないからね?」
「……大丈夫。体は頑丈だからあと30分……」
「根拠のない言い訳しないの。寝るなら自分の部屋で寝なさい」
テレビを見ながら眠気と格闘する千佳をジト目で見下ろしながら、彼女はバスタオルと着替えを持って風呂場へ向かった。
その背中を見ないようにしながら、千佳は短くなった髪の毛を後ろ手でかきながら上体を起こし、
「……あー……」
人知れず、ため息をつく。
正直、眠たくて床の上でうだうだしていたわけではない。自分の中にある問題に答えを見つけられないから、その鍵である真雪を正面から見つめられないのだ。
最近殊更に膨らんでいく、千佳の「男」としての真雪に対する思い。
世間的な言葉で言えば恋愛感情と呼ぶのだろうが……今まで誰かを好きだと自覚したことのない千佳には、彼女にどんな顔を向ければいいのか分からない。
だから、彼女とこうして部屋に居合わせるときは、背中を向けたり、寝たふりをしてみたり。
「……どこのガキだよ、俺」
今までは自分を受け入れられずに苦しんできたのだが、一旦こんな自分を受け入れてみれば、別問題で頭が痛い。
そりゃあ、自分の全てを受け入れられたわけではない。千佳が抱えている問題は複雑なので、千佳が本当の意味で自分を受け入れる瞬間を迎えるためには、まだ、いくつもハードルを越えなければならないだろうけど。
最初にして最大のハードルにぶち当たってしまった。間違いない。
最初は側にいられればいいと思った。彼女にも彼女の付き合いがあるから束縛することは出来ない。だけど、真雪は必ずこの家に戻ってきてくれるから……その時に同じ空間で同じ時を過ごせれば、それだけで満足だったのに。
それが成功すると、もっと上を求めてしまう。
もっと近づきたいとか、触れたいとか、いっそ……。
「あほかっ!!」
あまりに分かりやすい自分に、怒りを通り越して呆れるしかない。
「違う、あたしは……違うっ!」
「何が違うの?」
「ひぃっ!?」
刹那、カエルが踏み潰されたときに発するような……まぁ要するに驚いて引きつった声をあげる千佳。
千佳がうだうだ考えている間にシャワーを済ませた真雪が、先ほどから移動していない千佳と目線を合わせるようにしゃがみこみ、
「シャワー、あいたわよ?」
「わ、分かった! 分かったからっ!」
濡れた髪の毛から雫が滴り落ちる。上半身キャミソールの真雪は、完全に動揺している千佳へ不信そーな目を向けながら、
「まだココで寝るつもりじゃないでしょうね?」
石鹸とシャンプーの香りが、千佳の頭を麻痺させようとする。
「寝ないってば! ほら、今から部屋に戻って着替えとか持ってくるからっ!」
何かに抗うように立ち上がり、大またで自室に戻る千佳。
「あんな格好で出てくるなよ、ったく……!」
自室に戻り、一度、豪快なため息。
「……」
その背中を見つめた真雪の瞳は……少しだけ、悲しそうだった。
「……疲れてますね、藤原さん……」
3日後、午後の客足が落ち着いたバイト先の休憩室にて。
出勤早々、栄養補助ドリンクを片手に壁際のパイプ椅子に座り、それでもげっそりとした千佳の様子をみた薫が、自分の鞄をロッカーに片付けながら苦笑いを浮かべる。
正直、真雪とどのように接すればいいのか分からなくなって、考えれば考えるほど泥沼にずぶずぶと沈んでいくような気がして……前にも後ろにも進めないまま、時間だけが過ぎ去って今に至る。
集中力も欠如していて、バイトに来る途中、ジーンズの上からはいていたスカートを路上駐輪されていた自転車に引っ掛けて破いてしまったり、オーダーを取り間違えて料理を無駄にしてしまったり。
あのスカートは二度とはけないから処分確定。何をやっているんだろう、誰か教えて欲しい本当に。
多分、今の自分とは対照的な薫の存在に気がついた千佳は、飲み干したビンを手でいじりながら、
「……新谷君は、都ちゃんと一緒に住みたいんだっけ?」
「え? ええ、まぁ……」
唐突な質問に、どもりながらも返答する薫。
まぁ、彼の答えなど聞かなくても分かっていた。ただ、自分の好きな人へ真っ直ぐに思いを伝える彼の姿が、今になって非常に羨ましく思う。
――あたしはいつも、他人ばかり羨ましいって思ってるな。
「新谷君が都ちゃんと一緒に住んだら、都ちゃん、体が持たないんじゃないの?」
「そんなことないですよ。俺はもう……同じ間違いは繰り返さないようにしようって、言い聞かせてますから」
同じ間違い。話の脈絡を掴み損ねるが、他人の事情にこれ以上深く突っ込むのは野暮なのでこのくらいにしておこう。
「藤原さんは既に、上田さんと一緒に住んでいるじゃないですか。少なくとも俺は、都が大学卒業するまでは無理ですからね」
「……いや正直、結構大変だよ? 一緒に生活してみて分かることって、思っている以上に多いし」
同棲という響きに夢だけを抱いているだろう薫だが、先輩の千佳に言わせれば、夢だけじゃ一緒に暮らせない。
どちらかが折り合いをつけなくちゃならないこともあるし、我慢しなくちゃならないことも多々ある。
時々、相手がどーしよーもないほど憎らしくなることだってある。
だけど、
「それでも、都が俺を必要としてくれれば……俺が多少我慢してでも、側にいたいと思うような気がします」
制服という名の戦闘服に着替えた薫が、ロッカー備え付けの鏡で前髪を整えながら呟く。
「都はあんな性格だから、そう簡単に折れてくれないかもしれないけど……でも、彼女はきっと、俺の話を聞いてから判断してくれます。誰の話でもない、俺の話をちゃんと聞いてくれるから、一緒にいて気持ちいいのかもしれませんね」
一度呼吸を整えてロッカーの扉を閉めた薫が、扉に向かって歩きながら、
「藤原さんも、上田さんと話がしたいって……思っているんでしょう?」
その質問に答えられないまま、フロアに出て行く薫を見送っていた。
考えてもどうすればいいのか分からない。そもそも、考えてどーにかなることなのかどうかも分からない。
結局色々とグチャグチャな状態の千佳は、夕食を早々に済ませてベッドに転がっていた。
心配してくれる真雪の顔を、真っ直ぐに見ることも出来ない。
適当な言葉で取り繕う余裕もない。
――どうすればいいのか、何も、分からない。
電気も付けないまま、暗い部屋で一人、静かにため息をつく千佳。
と、
「……千佳、入ってもいい?」
軽いノックの音と同時に、扉の向こうから心配そうな真雪の声。
「まゆっ……!」
慌てて上体を起こすと同時に、開いた扉の隙間から、リビングの明かりが差し込んでくる。
扉を半分ほど開いたところで、近くにあるスイッチをカチカチと押してみる真雪だが、
「直接つけなくちゃダメなのね。千佳、もしかして寝てた?」
少しだけ慎重に部屋の中へ入ってくる真雪。彼女が近づいてくる、ベッドの上で硬直している千佳だが、その事実に慌てて呆けていた頭を叩き起こし、
「あ、あの……ゴメン、ちょっと具合が悪いみたいで」
何とか言葉を取り繕うが、それが逆に、真雪を心配させる結果になってしまった。
「薬は何かのんだ?」
「大丈夫だよ、寝てれば治るし。あんまり近づかないほうがいいと思うよ?」
それがきっと、最後の警告。
「そういうわけにもいかないでしょう?」
少し厳しい語気の真雪が、千佳の隣に腰を下ろして、
「熱は?」
「ないよ」
暗い部屋でも彼女の表情が分かるほどの至近距離で見つめられ、心臓が、高鳴る。
「ちょっと、手、貸して」
「大丈夫だってば」
我慢してきたのに。表に出しちゃいけない感情だと思い込むことで自制してきたのに。
「いいから」
強引に右手を掴まれた瞬間。
制御が、きかなくなる。
世界が、壊れる。
千佳は自分の手首を掴んだ真雪を空いている片手で強引に抱きしめると、そのまま意図的に体重をずらしてベッドに転がる。
突然の出来事に、真雪は掴んでいた千佳の手を離した。
「千佳……?」
結果的に千佳の下にいる真雪が、目を見開いて「彼」を見つめる。
体がすくんで動けないのだろう。何か言葉を言おうとしても通じない日本語になるだけで、今までに見たことがないほど混乱している真雪の姿に、思わず笑ってしまいそうになった。
自由になった腕を使って体制を整えた千佳は、結果的に押し倒した、そんな彼女を見下ろして、呟く。
「……だから言っただろ? あんまり近づかないほうがいいと思うって」




