第93話:総力を、尽くして
黒い粉が、まだ空中に漂っている。
地龍の残骸だ。
あの巨体が、あの一瞬で消えた痕跡が、風に舞う灰となって落ちてくる。
空気は重く、口の中が乾く。
だが立ち止まる余裕はない。時間は容赦なく流れていく。
(一体じゃ、ダメだった。なら──全部、出す)
胸の奥で決意が固まる。
恐怖は消えないが、後退は許されない。
私は声を張り上げ、仲間に指示を飛ばした。
「みなさん!一度、大きく距離を取ってください!」
全員が素早く後退する。
足裏に伝わる振動が、まだ消えない。
ヌエは動かず、あの笑みを崩さない。
私は深く息を吸い、スキルの根に手を伸ばした。
手のひらに伝わる冷たさと、世界の縫い目を掴むような感触を確かめる。
「空間よ、軋め……虚空よ、裂けよ……響け、不協の調べ……天を統べし銀眼の覇者よ、いま、悲しみとともに舞い降りよ──降臨せよ、天竜」
空が裂けるような感覚とともに、銀色の巨躯が天井を突き破って降り立った。
嵐の風圧が吹き荒れ、破片が四方へ飛び散る。胸の中で小さな希望が灯る。
「刻は満ちた。炎は輪となり、運命を焼き尽くす!来たれ、和の炎輪!!和入道!!」
空中に炎の輪が浮かび上がり、業火を纏った巨体が轟音と共に姿を現す。
熱が波のように押し寄せ、肌が焼けるように感じられる。
「糸よ、闇の隅に満ちよ……這い回る古の狩人よ、地を覆い尽くす黒き命よ。血の記憶を辿り、いま再び顕現せよ——来たれ、土蜘蛛!!」
石畳が砕け、黒曜石のような胴体が地面を割って這い出す。
無数の脚が畳み掛け、糸がビルとビルの間を縫う。
視界の端で、世界が別の律動を刻み始める。
「業火よ、地の底より昇れ……怒りを纏いし鬼の王よ、空を裂く咆哮よ。憤怒の記憶をたどり、いま再び顕現せよ——来たれ、牛鬼!!」
地の底から咆哮が響き、業火を背負った巨躯が空へ舞い上がる。
瞳に宿る怒りが、こちらの心を震わせる。
四体が展開し、ヌエを取り囲む。
天龍は雷を纏い、和入道は炎輪を回し、土蜘蛛は糸を張り巡らせ、牛鬼は上空から圧力をかける。
四方から同時に攻め立てる圧が、戦場を別の次元へと押しやる。
「……おう、バーゲンセールみてェだな」
「ばーげんせーる?」
オーグさんの呟きに、緊張の中で一瞬だけ笑いが零れる。
だがその軽口も、すぐに戦意へと変わる。
天龍の爪がヌエの胴体を抉る。
再生はするが速度が落ちる。
和入道の炎が尾を焼き、牛鬼が体当たりを繰り出す。
土蜘蛛の糸が動きを縛り、少しずつ追い詰めていく感触が伝わる。
胸の奥に、確かな手応えが生まれる。
「効いてるわ」
メグーちゃんが静かに言った。
その瞬間、空気が変わった。
ヌエが静止し、笑みが深くなる。
私の背筋を冷たいものが走る。
何かが形を変えようとしている。
虎の胴体が崩れ、蛇の尾が霧散し、人に似た顔が溶けて消える。
代わりに黒い煙が空間を満たし、底の見えない塊となって立ち上がる。
形は曖昧で、端が空気に溶けていく。
だが──目だけはあった。
空洞の目が黒煙の中に浮かび、笑みが張り付いている。
黒煙から、声にならない何かが染み出す。
鳴き声とも唸りともつかない低い響きが、直接胸の奥に染み込んでくる。
理屈を越えた不快さが、全身を包む。
「……形が変わった」
メグーちゃんの声が低く落ちる。
その言葉は静かだが、そこに含まれる危機感が私の鼓動を速める。
「もっと理から外れた姿になっている。あの形では──物理の攻撃は、ほぼ通じないわ」
天龍の爪は煙をすり抜け、和入道の炎はただ揺らぎを生むだけだった。
牛鬼の体当たりは空振りに終わり、土蜘蛛の糸は煙を素通りする。
四体の攻撃が、ことごとく届かない。
黒煙の中から、あの鳴き声が再び響いた。
感情のない深い闇の音が、次の攻撃の予兆として胸に刺さる。
私の本能が叫ぶ。次に来るのは、音そのものを武器にした攻撃だ──そして、それは私たちの詠唱や気配を根底から揺るがす。
私は歯を食いしばり、次の手を探した。
恐怖は消えない。
だが仲間の顔を見れば、諦めはない。
黒煙の笑みに対して、私たちはまだ戦える。
次の一手を、冷静に、しかし迅速に打たねばならない。




