第94話:前兆
黒煙の中から、音が来た。
耳で聞こえるわけではない。
胸の奥から直接染み込んでくるような響きだった。
誰かの嘆き、誰かの怒り、誰かの──絶望。
それらが混ざり合い、形を持たないまま押し寄せる。
「っ……!」
息が詰まり、足元がふらついた。
「バリア!!」
メグーちゃんの声が飛ぶ。
彼女のバリアが膨らみ、音の波を押し返す。
私は奥歯を噛みしめ、頭を振った。
黒煙のヌエが、ゆっくりと空中に浮かぶ。
煙の中から、何かが充填されていく気配がした。
先ほどの音の攻撃とは、また違う。
胸の奥で冷たい予感が膨らむ。
黒煙の中心から、黒い閃光が放たれた。
音がない。光だけが走る。
地龍を一撃で消し炭にしたあの雷と同じ──いや、それより大きい。
「っ──!」
天龍が直撃を受けた。
銀色の巨躯が、一瞬で黒い灰になった。
嵐を統べる神龍が、音もなく崩れ落ちる。
続けて、和入道へ。
炎の輪が弾け散り、業火が掻き消えた。
土蜘蛛へ。
張り巡らされた糸ごと、黒い粉に変わった。
牛鬼へ。
空を裂く咆哮が途切れ、その巨体が灰となって落ちていく。
四体、全滅。
静寂だけが残った。
黒い粉が、ゆっくりと空中に舞っている。
さっきまでそこにいた四体の残骸だ。誰も声を出せなかった。
「……!」
次の瞬間、黒煙が広がった。
音の奔流が、空間全体に満ちる。
「がァァッ……!」
オーグさんが、地面に片膝をついた。
あの人が膝をつく。
それだけで、息が止まりそうになった。
「オーグさん!」
「う、うるせェ……問題ねェ……」
唸るような声だった。
けれど、立ち上がれていない。
分厚い手が頭を押さえ、その大きな体が、まるで内側から崩れていくように揺れていた。
黒煙がまた脈動した。
圧縮されるような音の塊が放たれる。
「──!」
オーグさんが、さらに大きく吹き飛ばされた。
巨体がビルの壁に叩きつけられ、崩れた壁の破片が降り注ぐ。
埃が舞い上がり、視界が曇る。
「オーグさん!!」
駆け寄ろうとしたが、黒煙が行く手を塞ぐように広がった。
壁際に倒れたオーグさんは、動かなかった。
息はある。でも、意識がない。胸が締めつけられた。
「……メグーちゃん!」
「バリアは、まだ張れる」
メグーちゃんの声は静かだった。
だが額に汗が滲み、銀の髪が乱れている。
彼女の手は震えているのを私は見逃さなかった。
「ケビンさんは……」
振り返ると、ケビンさんが壁に手をついて膝を折りかけていた。
顔が青白い。唇が震えている。
「ぼ、僕……詠唱が……音のせいで、まとまらなくて……あは……あはははははは!!あはははははは!!」
「ケ、ケビンさん!?」
ケビンさんは明らかに様子がおかしい。
大声で笑っているが、目が笑っていないのだ。
笑い声が空間にひびき、しかしその裏で何かが崩れていくのが分かる。
「ヌエの影響、モロに受けているわ」
メグーちゃんの声に、冷静さと焦りが混じる。
バリアが頼みの綱だが、いつまで持つか分からない。
黒煙の中から、あの鳴き声がまた響いた。
胸の奥に直接染み込んでくる。
オーグさんは動かない。
ケビンさんは精神を汚染され始めている。
メグーちゃんのバリアが、今のところ唯一の防壁だった。
(どうする。何か……)
私は歯を食いしばり、スキル一覧を探り続けた。
恐怖が指先を冷たくする。
仲間を失うわけにはいかない。
だが、音は私たちの詠唱を、気を、そして心を容赦なく侵食してくる。
視界の端で、黒煙がゆっくりと形を変えていく。
笑みは変わらない。
だがその笑みの奥に、次の一手の予兆が潜んでいるのを私は感じ取っていた。
時間はない。
私たちは、音そのものと戦わねばならない。




