第92話:一瞬で消ゆ
無音の雷が落ちた。
光だけが走り、世界の輪郭を切り裂く。轟音はない。
その沈黙こそが、恐怖だった。
「っ──!」
反射的に地を蹴り、一歩横へ跳ぶ。
光が踏んでいた場所は白く焼け、黒い石畳が焦げていく。
耳は静かなまま。だが全身が、これが魔法であることを理解していた。
骨の奥まで伝わる冷たさと、皮膚の下で震える電流のような感覚が、言葉より先に真実を告げる。
詠唱もなく魔法を放つ──その意味が、今ようやく体の芯まで染み渡る。
ヌエは笑っている。
動かない。
空洞の目はこちらを向いているのに、視線は届かない。
ただ在るだけの存在が、淡々と殺意を放ってくる。
「天の怒りを知れ!これぞ神の雷!!唸れ!!雷矢──ヴォルト・ストラ──」
ケビンさんの詠唱が、途中で止まった。
声が上ずり、言葉が空気に触れる前に崩れていく。
「詠唱が……まとまらない」
顔が青白く、唇が震えている。
音の干渉が、もう始まっているのだと、私の胸が冷たくなる。
思考が短くなる。
選択肢が一つずつ消えていく感覚に、恐怖が混じる。
私は蔓糸草を生み出し、建物に絡ませて素早く移動しながらケビンさんを引き寄せた。
「大丈夫ですか!?」
「詠唱が……音のせいで、言葉が散って……」
無音の雷は散るように続く。三発、四発。
光だけが空間を切り裂き、静寂はさらに濃くなる。
胸の奥が締め付けられ、呼吸が浅くなる。
地上ではオーグさんが落雷を身体で受け止めていた。
巨体はひるまないが、半歩だけ押し戻される。
汗が額を伝い、息遣いが荒くなる。
「……痛ェな」
「オーグさん!」
「大丈夫だァ……やられたらァ!やり返すまでよォ!」
唸りながら拳を振るう。
彼の動きは豪胆だが、その拳が空間を切り裂いた瞬間、殴ったはずの胴体が黒い靄となって霧散し、するすると元の形に戻っていくのを私は見た。
手応えが消える感触が、指先に冷たい虚無を残す。
「効かねェ!?」
その声に、私の体は動いていた。
聖剣を呼び、心の中で天龍の力を重ねる。
「我は天空の支配者……我が名において命ず……天よ……風よ……雷よ……刃となれ!」
剣の刀身が白銀に輝き、雷の光が這い上がる。
オーグさんの拳が霧散した隙に、私は踏み込んだ。
刃がヌエの胴体を縦に裂く。
雷光が内側で爆ぜ、空間に細かな光の粒が散った。
確かに、手応えはあった。
だが。
黒い靄がゆっくりと渦を巻き、切り口がするすると塞がっていく。
元の形へ、静かに、何事もなかったように。
「斬っても再生するんですか……!」
ケビンさんの声に、いつもの落ち着きの端が欠ける。
「閉ざせ──大気の牢獄。逃れ得ぬ虚無の檻、今ここに顕現せよ!真空連鎖──!!」
詠唱を試みるが、魔力が乱れ、言葉が力を持つ前に吸い取られていく。
ヌエは笑っている。
その笑みが、少しだけ深くなった気がした。
空洞の目が細まり、顔の輪郭が揺らめく。
まるでこちらの努力を愉しむように──いや、それすら感情ではない。ただ世界の理として、再生が在るだけだ。
黒い閃光が、また走った。
「バリア!!」
雷がまた走り、メグーちゃんのバリアを直撃した。
バリアが軋む細い音が、静寂の中で鋭く響く。
バリアが軋む音が止んだ刹那、雷が方向を変えた。
バリアの縁をすり抜けるように弧を描き、メグーちゃんの背後へと迫る。
「盾壁草!!」
足元から緑の壁が跳ね上がり、メグーちゃんとの間に割り込んだ。
雷がそこに直撃し、衝撃が腕に伝わる。
壁は割れ、焦げながらも、閃光を受け止めた。
「……防戦一方じゃ、やられるわ」
メグーちゃんの声は静かだ。
事実を述べるだけのその冷静さが、逆に恐ろしい。
彼女の銀の瞳がこちらを見据え、計算しているのが分かる。
だが計算だけでは埋められない穴が、私たちの前に開いている。
「止まってたらやられんぞォ!」
その声に、皆が散った。
次々と雷が落ちてくる。ギリギリで躱し、転がり、また走る。
(何か手を打たないと……このままじゃ)
走りながら、私は必死に頭を回す。
スキル一覧を指先でなぞるように探り、動きを止めずに意識を滑らせる。
幽霊召喚──霧で視界を遮れば、ヌエの攻撃の起点を掴みにくくできるかもしれない。
「幽霊召喚……」
白い霧が足元から静かに広がり、幽霊が空間に溶け込むように揺らめく。
霧はヌエの周囲を包み込み、張り付いた笑みが少しだけ見えにくくなった。
「見失っていやがるなァ」
霧の中、オーグさんの声が響く。
「……音で探ってくる。気配を消して」
メグーちゃんの声も聞こえる。全員が息を殺す。
胸の鼓動だけが、やけに大きく聞こえる。
だが──ヌエは音もなく動いた。
蛇の尾が一本、霧の中から滑り出す。
時間が止まったように見えたその尾が、私たちの間合いを裂く。
「盾壁草!」
思うより先に叫んでいた。
足元から緑の壁が伸び上がり、尾の直撃を受け止める。
鈍い衝撃が腕に伝わり、壁は割れながらも衝撃を分散して私を守った。
そのわずかな隙に、オーグさんが拳を叩き込む。
しかし光の煙が散ったように、ヌエの胴体はまたするりと再生する。
「……効いてねェ。全然、手応えがねェ」
オーグさんの声に、珍しく焦りが滲む。
私の胸の中で、じり貧という言葉が重く響いた。
(このままじゃ、持たない。何か……大きな一手が要る)
私は声を張った。
地龍を呼ぶ決断は、心の中で何度も反芻した末のものだった。
全員が素早く後退し、私は深く息を吸って詠唱を口にした。
「時の深淵より目覚めし、大地を揺るがす覇王よ。血潮の記憶をたどり、いま再びこの地に顕現せよ。」
地面が震え、石畳が割れる。
暗い亀裂の奥から巨大な影が這い出し、鱗が光り、爪が石を砕いて地龍がその巨体を持ち上げた。
胸の奥に、かすかな希望が灯る。
体格差は圧倒的だ。
これなら──と、私の心が一瞬だけ軽くなる。
だが、その瞬間、ヌエが動いた。
笑みは変わらない。
空洞の目が地龍をゆっくりと映す。
黒い閃光が、音もなく走った。
地龍の胴体に直撃した瞬間、あの巨体が一瞬で消し炭になった。
鱗も爪も咆哮も、すべてが黒い灰となり、音もなく崩れ落ちる。
地面に残ったのは、黒い粉だけ。
希望は一瞬で吹き飛び、空白だけが残った。
誰も声を出さなかった。
胸の中の鼓動が、耳鳴りのように響く。
指先が震え、呼吸が浅くなる。
あの地龍を、あんな一瞬で──という事実が、体の奥で冷たく固まる。
ヌエはまだ笑っていた。
何も変わらない笑みで、こちらを見ている。
その笑みに、世界の理が含まれているように思えた。
私たちの行動も、詠唱も、力も、すべてを無音の光で切り捨てる存在。
恐怖は形を変え、静かに、しかし確実に心を蝕んでいく。




