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誰も食べない世界に真実を  作者: 農民
第2章:古都の傲焔
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第91話:ヌエ、無音の雷


 先へと進むにつれ、空気が変わった。

 重くなった──とは少し違う。

 音が、消えていく感じがした。


 足音。衣擦れ。息づかい。

 本来なら耳に届くはずのそれらが、何かに吸い込まれるように薄れていく。

 まるで世界そのものが、静寂を食べているかのようだった。


(なんだろう、この感じ……)


 見上げると、逆さまのビルの底面が天井のように重なっていた。

 コンクリートの割れ目から黒い染みがにじみ出し、ゆっくりと広がっている。

 その染みは重力を忘れたかのように横へ横へと這い、底面全体を覆い始めていた。


 そして──脈動している。

 建物の向こう側で、何かが呼吸しているように。


 胸の奥がひやりと冷え、足が自然と止まりそうになる。

 この静寂は、ただの静けさではない。

 何かが、確かにいる。


「……魔力が薄い」


 メグーちゃんが立ち止まり、低く言った。

 銀の瞳が天井を見回し、鋭く細められる。


「この染みが、空間の魔力を吸い込んでいる。魔法を使うなら、相応の消耗を覚悟しておいて」


「んだとォ? この空間、魔法が使いにくくなるってことか?」


 オーグさんが眉を寄せ、低く唸る。


「……ええ。それに……まずいわ」


 メグーちゃんの銀の瞳が、空間の一点を静かに射抜く。

 その横顔に、かすかな緊張が走っていた。


「気配がする……魔物じゃない。別の、何かの」


「その『何か』ってのは」


「言葉にできない。でも……悪いものよ。確かに」


 その声音は小さいのに、空気を震わせるような重さがあった。

 静寂を食べる空間の中で、彼女の言葉だけが妙に鮮明に響く。


 胸の奥がざわりと揺れた。

 見えない“何か”が、確かにこちらを見ている──そんな感覚が背筋を冷たく撫でていった。


 私は息を呑んだ。


 空間の温度が、数度下がった気がした。

 天井の染みの脈動が、微かに速くなる。

 指先がじわりと冷え、この場所には熱というものが存在しないように思えた。

 吐き出す前の呼吸の白さすら、空気に触れる前に消えていく。


 そのとき。


 逆さまのビルの影が深く落ちた一角で、もやのような影が揺れた。

 最初は幻かと思った。だが、それはゆっくりと輪郭を持ち始める。


 虎のようにしなやかな胴体。

 空中でゆっくりとうねる、無数に枝分かれした蛇の尾。

 そして──顔は、人に似ていた。


 目は空洞で、笑みだけが張り付いている。

 笑っているはずなのに、そこには感情がない。ただ“在る”というだけの、深い闇の笑み。


 植物も魔物も、どんな生き物も存在するなら何かを発する。

 根の張り方、体温、呼吸の揺らぎ──微細でも必ずある。

 けれど、あれにはそれがなかった。生命の気配が、根こそぎ抜き取られているような。


 胸の奥がひやりと冷え、背筋をつたう寒気が止まらなかった。


「……妖怪ね」


 メグーちゃんの声が、静かに空間へ落ちた。

 その一言だけで、空気がさらに冷え込んだ気がした。


「魔物とは違う。七禍具の瘴気に長く晒された魔物が、異界の理に踏み込んだ姿よ。かつて天使の零落に入り込んだという記録もある」


「……七禍具?」


「詳しく知らないけど、でも、あの妖怪はヌエって呼ばれているわ。音で魔を操る。詠唱なしで魔法を放つ。そして──」


 メグーちゃんが一拍置いた。


「──斬っても、すぐに再生する」


 静寂が、さらに深くなった気がした。


「……あの音には精神に作用するものがある。心の深いところを揺さぶって、気を乱す。気を扱う者は特に影響を受けやすい」


 その言葉に、オーグさんの顔がわずかに険しくなった。


(つまり……オーグさんが、最も危ない)


「ケビンさん、魔法の詠唱には気をつけてください。音による干渉を受けると、詠唱が乱れる可能性があります」


「え……っ、は、はい」


 ケビンさんの顔が青ざめた。

 魔法使いにとって、詠唱が乱れることの意味は分かっている。


 その瞬間、音もなく白い閃光が走った。

 耳に何も届かない。本来なら轟音があるはずなのに、音が伴わない。

 まるで世界の理が裂けたような、ぞわりとした違和感が背筋を撫でた。


「来るぞォ!!」


 オーグさんの声が響いた。


 私は反射的に一歩後退し、スキルを探る。

 盾壁草、幽霊召喚──何が通じるだろうか。


 最初の一手を考えながら、私は前に出た。


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