第90話:龍を要さぬ者
闇があった。
光もなく、音もなく。
空間の輪郭すら曖昧なその場所で、二つの気配が向き合っていた。
一つは床に伏したまま動かない。
頭を深く垂れ、額が冷たい石に触れている。
もう一つは──立っていた。
「それで」
陽気な声だった。
けれど、温度がない。
「神の使者の始末は?」
間があった。
「……申し訳ございません。失敗しました」
低く、静かな答えだった。
言葉を選ぶ余地もなく、ただそのままを告げるしかない。
「ふうん」
それだけだった。
叱責もない。
怒気もない。
ただ、一音だけが空気に落ちた。
「向かわせた魔物は?」
「全滅しました。殿下一行がミリアリアとフェイの元へ向かっているとの報告も入っております。さらに、教会が動きを見せ、勇者達もまた──」
「うん」
遮られた。
柔らかかった。
しかし、続きを促す声ではなかった。
「このままでは龍召喚が阻まれる可能性があります。自分自身が出向くべきかと存じますが──」
「必要ないよ」
即答だった。
伏したまま、息を呑む。
「……しかし」
「必要ない、って言った」
繰り返す声は、穏やかだった。
それでも、それ以上を言わせない重さがあった。
沈黙が落ちる。
「……使者の件は、不問にするからさ、もういいよ」
伏したまま、視線を上げることができなかった。
責められる方がまだ分かりやすかった。
この軽さの意味が、どうにも測れない。
「恐れながら……龍召喚が失敗しても、構わないとお考えなのでしょうか」
「まあ、そうだね」
頷く気配がした。
「……イカロスタワーと世界樹の破壊には、龍の力が必要ではないのですか」
今度は、少しだけ間があった。
「状況が変わったのさ」
それから、首を横に振る気配がした。
「もう、龍なんてどうでもいい。それに、殿下が阻もうとしているなら……ジゴロの奴も何も言えないでしょ」
伏したまま、ただ頷く。
理解できなかった。
龍を必要としないとはどういうことか。
状況が変わった、とはどういう意味か。
しかし、問い返す言葉が出てこなかった。
なぜなら──
声が、変わっていた。
陽気さの中に、今まで聞いたことのない何かが混じっていた。
温度、ではない。
むしろその逆だ。
温度のない陽気さの奥に、焔のような何かが宿っていた。
ゆっくりと顔を上げる。
立っている影の輪郭は変わらない。
だが、その在り様が違った。
どこかが、高揚している。
「感じるんだよね」
声は静かで、しかし確かに弾んでいた。
「傲焔が……覚醒した気配がする」
一言一言を、噛みしめるように。
「間違いない。器の覚醒が近い」
空気が変質した。
温度ではない。
密度が、変わった。
「お母さんが……目覚める」
その声には、初めて感情があった。
崇拝と歓喜が入り混じった、震えるような声。
冷たい陽気さではなく、灼けるような確信。
伏したまま、ただ静かに聞いていた。
「お母さんが目覚めれば……龍なんて必要ない」
言葉が、闇の中に広がった。
消えるのではなく、そのまま空気に溶けて、しかし確かにその場に満ちていく。
「だから、もう放っておこう」
その言葉が意味することを、理解する前に、圧が来た。
それは気配ではない。
空間そのものが揺れるような、何か遠くの巨大なものが動き出しているような、そういう感覚だった。
「承知しました……魔王様」
ただ、頷いた。
理解は追いついていない。
しかし、それ以外にできることがなかった。
影は静かに踵を返した。
音もなく、言葉もなく。
ただ、その足取りだけが──今まで見たことのないほど、軽かった。




