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誰も食べない世界に真実を  作者: 農民
第2章:古都の傲焔
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第87話:烙印の日


 やがて意識が沈み、夢を見た。

 夢の中の私は子どもだった。


 村外れの小さな丘の上で、膝を抱えて空を見ていた。

 あの頃の私は本をよく読んだ。冒険者の手記、遠い国の地誌、魔物の生態図鑑。

 読むほどに世界は広がり、知るほどに遠くへ行きたくなった。


 木の葉が揺れるたび、風が運ぶ遠い土の匂いを外の世界の匂いだと思っていた。

 そんな子どもだった。


 いつか誰かの役に立てる日が来る。

 根拠もなく、ただ信じていた。


 グレントリーの日が来た。

 神が人に「ロール」を授ける神聖な儀式で、職業に似るが一生を規定する烙印でもある。

 この世界に生きる者は、例外なく九歳の誕生日に神の意志をその身に刻まれる。


 村の教会の前に子どもたちが列をなした。

 磨き込まれた石畳の上で、誰もが緊張しながらも期待に目を光らせていた。


 隣の男の子は「騎士になれたらいいな」と囁いた。

 その隣の女の子は「魔法使いがいい、絶対」と言い切った。


 私は何も言わなかった。

 ただ、胸が痛くなるほどどきどきしていた。


 教会の中は外の喧騒が嘘のように静かだった。

 高い天井から差し込む光が埃を金色に染めながら落ちていく。


 白衣の神官が一人ずつ頭に手を当てていく。

 手を当てられるたびに、ほんの一瞬だけ光が灯った。

 その度に子どもたちの口から声が上がった。


 騎士。

 魔法使い。

 剣士。

 商人。


 安堵の息、歓声、親の誇らしげな顔が積み重なり、教会は温かなざわめきに満ちていった。


 私の番が来た。

 神官の手が私の頭に触れた。

 光が降りてきた。


「……ユニークロールだ」


 その呟きが天井に反響し、場内が息を呑んだ。

 ざわりと広間が揺れ、保護者席から誰かが立ち上がる気配がした。

 神官たちが顔を見合わせる。


 誰も知らないロール。

 誰も見たことのないロール。


 家に帰ると、父が玄関まで出てきて私を抱き上げた。

 そんなことは生まれて初めてだった。


「ユニークロールだそうじゃないか!!よくやった!!」


 父の声は上擦り、頬は興奮で赤く染まっていた。

 母も目を赤くして私の頭をぎゅっと抱えた。

 温かかった。


「よかった……よかった、アニー……!」


 その夜、父は夕餉の席に着いてからもずっとユニークロールの話をした。

 「村でユニークロールが出るなんて、何十年ぶりだろう」

 「いや、村史上初かもしれない」


 誰も求めていないのに何度も繰り返した。

 夕餉が終わっても父は話し続け、隣家のドナルドじいさんのところへわざわざ顔を出して同じ話を最初からやり直してきたらしかった。

 帰ってきたときには、頬がもっと赤くなっていた。


 母は夕餉の間、私の手を離さなかった。

 箸を持つのが難しいほどしっかりと。

 父が喋り続ける間も、母はただ私の手を握り、ときどき私の顔を覗き込んだ。

 その目はまだ少し赤く、でもほころんでいた。


「アニーは昔から特別だと思っていたのよ」


 小さな声で母が言った。

 私に聞かせるためでも自分に言い聞かせるためでもなく、ただ呟くように。


 嬉しかった。

 本当に嬉しかった。


 でも胸の奥に小さな棘が引っかかっていた。


 ユニークロール。農民。


 その言葉の意味を誰も教えてくれなかった。

 父も母も神官も、その夜は誰も触れなかった。

 みんな分からないのだと思う。だから触れなかった。


 私も聞けなかった。

 あんなに明るい夜に水を差すようなことは言えなかった。


 家の中があんなに明るかったことは、後にも先にもなかった。


 それから何日かが過ぎた。


 私は家の庭の隅でしゃがんでいた。

 石壁の隙間から小さな草が生えていた。

 名前も知らない野草だった。

 石と石の間のほんの少しの土に根を張り、それでも確かに葉を広げていた。

 薄くて柔らかく、産毛のような毛が朝の光を受けて光っていた。


(農民って、何だろう)


 ロールを授かってからずっとそれだけを考えていた。

 読んだことのある本には一度も出てこない言葉だった。


 指先でそっと葉に触れてみた。

 驚くほど柔らかかった。薄い膜のようで、押すとわずかにへこみ、離すと戻る。

 産毛が指の腹をくすぐった。


 農民、農民……。


 頭の中でその音を転がした。

 「農」という字には耕すという意味がある。土を耕し作物を育てる。

 そこまでは分かる。


 でもなぜ作物を育てるのだろう。


 この世界では人はマナで生き、食べる必要がない。

 だから農作物の用途が分からなかった。

 じゃあ農民って、何のためにあるロールなんだろう。


 手の下で、野草の葉がかすかに揺れた。


 育てる、という行為そのものに意味があるのだろうか。

 草は、誰かに食べてもらうために生きているわけじゃない。

 ただ生きている。日を受けて、土から何かを吸い上げて、葉を広げている。

 この石壁の隙間の野草だって、誰も頼んでいないのに、こうして葉を広げている。


 でも、私のロールは農民だ。

 何かを育てる、何かを作る──。


 指を離すと、葉はまたゆっくりと形を取り戻した。


(作ったものを、誰が使うんだろう)


 答えは出なかった。

 ただ草の葉は朝の光の中で静かに光っていた。


 そこへ隣家のおばさんが声をかけてきた。


「アニーちゃん、おめでとうね。ユニークロールなんて、この村初めてだって大騒ぎよ」


「あ……ありがとうございます」


「お父さんが村中に触れ回ってたのよ、もう何日も前から。教会の偉い方も来たんですってね」


 足がすくんだ。

 教会が来ていた。

 父が村中に言いふらしていた。

 私の知らないところで、話はとっくに大きくなっていた。


「それで、どんなロールだったの?」


「……農民、です」

「え?」

「農民、だそうで」

「……農民? それは……何をするロールなの?」


 私には、答えられなかった。

 おばさんの笑顔がゆっくり消えていくのを見た。


 家に戻ると父が部屋の中心に立っていた。

 廊下を歩く私の足音を聞いて振り返った。

 その目に先日の赤みはなかった。


「アニー」


 声が低かった。

 父の手には封蝋のある書状が握られていた。

 教会の紋章だった。


「農民のロールには、戦闘能力も魔力への作用も確認されていない──と教会から回答が届いた」


 一言一言が重かった。


「……そんな……でも、ユニークなんだから、何か──」


「ユニークだと期待させておいて、何だこれは!」


 叫び声が部屋を揺らした。


「お前はもう要らん、出ていけ!」


 気づいたら床に倒れていた。

 頬が熱く、じんじんと脈打つように痛んだ。

 冷たい床の感触が頬から背中へ広がっていく。

 床板の木目がぼやけた視界の中で揺れていた。


「お父さん!やめてください!」


 母の声がした。

 駆け寄る足音。

 私の名前を呼ぶ声がどこか遠かった。


「お前は黙っていろ!!」


 鈍い音がした。

 それが何の音か、分かった。


 母が倒れる音だった。


「お母さん!!」


 私は立ち上がろうとした。

 足が震え、膝に力が入らなかった。

 それでも壁に手をついて間に入ろうとした。


「邪魔だ!!」


 父の腕が私を突き飛ばした。

 壁に背中をぶつけ、肺から空気が全部押し出されてしばらく息が吸えなかった。


 父の怒号は続き、母は何も言わず頭を庇って床に蹲っていた。


 私のせいで母が──その思いが胸の奥まで降りてきた瞬間だった。


 それは怒りでも悲しみでもない、深い場所から静かに動いた。

 水底の石が音もなく浮くように。

 何かが動いた。

 自分の中のことなのに、まるで遠くの出来事のようだった。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 息が整った。

 頬の熱さがどこかへいき、ぼやけていた視界がゆっくり鮮明になった。


 気づくと父が動きを止めていた。

 振り返る。

 母も腕の隙間から顔を上げていた。


 二人が私を見ていた。

 その目に浮かんでいたのは怯えだった。


 父が後ずさった。

 靴の踵が床板を引っ掻く音がした。

 母が唇を震わせ、私の名を呼ぼうとして呼べなかった。

 その口が形だけ動いた。


 私は自分の手を見た。

 何も変わっていない。

 でも何かが変わったことだけは分かった。

 自分の中のどこかが。


 何が起きたのか分からなかった。

 私は家を飛び出した。


「え……」


 家の外は暗闇だ。

 振り返ると、出てきたはずの家はない。


「どこ……ここ?」


 闇の中で声が重なり始めた。


「ユニークだと期待させておいて、何だこれは!」

「そんなロールで冒険者?馬鹿なんじゃないの?」

「薬草を育てるしか能のない奴」

「お前の役割は終わりだ」


 声が闇の中で何度も反響した。

 ミリアリアさんの声も混じった。

 伸ばした手が空を掴む。

 何も届かない。


 そう思った瞬間だ。

 自分が闇に沈んでいく。

 どこまでも、深く。

 底があるのかも分からないまま、ただ落ちていく。


 声も消えた。

 痛みも消えた。

 何もない場所へ、静かに落ちていく。


 ──そして、底があった。


 足が、何かに触れた。


 そこは、真っ暗ではなかった。

 薄い光が、どこからともなく満ちている。

 光源はない。ただ、空間そのものがうっすらと明るかった。


 見渡すと、どこまでも続く、何もない場所だった。

 地面も天井もない。

 ただ、静かな空間だけがあった。


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