第86話:引力の果て
足が、止まらなかった。
私が歩いているのに、私が動かしている気がしない。
「チンチクリン!危ねェ、止まれ!」
「お母さん、様子が変よ!」
オーグさんとメグーちゃんの声が背中で聞こえた。
でも、振り返れなかった。ただ、前だけを見て歩き続けていた。
石畳の道がゆるやかに曲がった先。
そこに、それはあった。
一本の刀。
まるで天から落ちた隕石が地面を貫いたかのように、石畳の中央へ深々と突き刺さっている。
漆黒の刀身は光を拒み、周囲の輝きを吸い込んでいた。
ただの黒ではない。
闇そのものが凝縮して形を成したような、見つめるほどに視界の奥がざわつく黒さ。
刀の周囲では空気がわずかに揺らぎ、世界の輪郭が呼吸するように歪んでいた。
私はぴたりと足を止めた。
「……刀?」
ケビンさんが私の隣で低く呟く。
でも、その声が遠い。
「細い剣のことよ。フロンティアラインの向こうから流れ着く武具の中に、あの形状のものがある」
メグーちゃんが答える。
「でもよォ、あれ地面から生えてるぞ?聖剣と同じキノコじゃねェのかァ?」
オーグさんの声だけが、ひりついた空気の中に落ちた。
誰も笑わなかった。
刀が放つ圧が、冗談を許さなかった。
「違う」
声が出た。
でも──自分の声なのに、違った。
いつもの私の声より、はるかに鋭く、冷たく、確かだった。
仲間たちが一斉に振り返るのが分かる。
(何を、私は)
自分でも驚いていた。
でも、止まらなかった。
手が勝手に動いて、前髪をかき上げていた。
光が、目に入る。
刀の鍔元に浮かぶ黒い痣が、赤黒く脈打ち、周囲の空気を震わせている。
「この妖刀から放たれている魔力の波……それを受けている空間の塊……まるで、世界そのものが妖刀に触れようとしているみたい」
口から言葉が出た。それは確かに私の声だったけれど、私の考えではなかった。
視界の端がわずかに暗くなり、自分の手が遠い場所にあるような感覚がした。
体の中に、もう一人の誰かがいる。
「聖剣のそれとは、明らかに違う……それが、分からないの?」
(違う、私はそんなことを思っていない)
でも言葉は続いた。
ケビンさんが言葉を失い、オーグさんが眉をひそめているのが見えた。
そのとき──刀の脈動が、一段強くなった。
頭の奥から、何かが広がっていく。
染み込んでくるような、暗い波だった。
仲間たちが、一瞬、顔を歪めた。
「っ……」
ケビンさんが額を押さえた。
「なんだァ、急に……頭がァ」
オーグさんも低く唸る。
(何が……起きている)
分かった。
刀の影響が、私だけでなく仲間たちにも届いている。
頭の奥に、声が響いた。
(殺せ)
その言葉が、静かに、でも確かに頭に入り込んできた。
私の声ではない。刀から来ている。
(殺せ。殺せ。殺せ)
オーグさんの表情がわずかに変わった。
腰の得物に、無意識に手が伸びかけている。
メグーちゃんが素早くその腕を押さえた。
「……聞こえてる?オーグ」
「……あァ。頭の奥で、繰り返しやがる」
オーグさんが、奥歯を噛みしめるように答えた。
(ダメだ。みんなが──)
体が、また動いていた。
今度は刀へ向かって。
「お母さん、止まって!」
声が聞こえる。でも足が止まらない。
心の奥底で、ダメだ、と叫んでいた。
体が言うことを聞かなかった。
一歩。また一歩。
刀との距離が縮まっていく。
(ダメ。ダメ。行ってはいけない)
でも手が、伸びていた。
オーグさんの腕が伸びてくる──その瞬間、メグーちゃんがそっとその腕を押さえた。
「……あァ?」
メグーちゃんの銀の瞳が、まっすぐ私の背中を見ていた。
「お母さんなら、止められる」
私には、メグーちゃんの言葉が遠く聞こえた。
刀に近づくにつれ、引力が強くなっていく。
(ダメだ。ダメだ。ダメだ──)
心の底で叫んでいても、指先が刀の柄へと触れた。
その瞬間──
世界が、暗くなった。




