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誰も食べない世界に真実を  作者: 農民
第2章:古都の傲焔
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第84話:見えざる糸を斬る者


(——あなたなら、断ち切ることができるわ)


 声が、頭の奥から響いた。

 傲慢な嘲りではない。

 静かで、深く、遠い場所から届くような声だった。


 霧の冷気とは違う、内側から灯るような温度を帯びている。


(ただ、そうできる。できて当たり前。そう思いなさい)


(……そんなこと、できません)


 胸の奥で反射的に否定した。

 縛られた体は動かず、魔物は目の前に迫っている。

 自分の無力さが、霧より濃く胸にまとわりつく。


(そう。なら——私がお手本を見せてあげる)


 声は穏やかだった。

 押しつけでも、命令でもない。

 ただ、当たり前のことを告げるように、静かに寄り添う響きだった。


 私は反射的に右腕を振り払った。


 その瞬間、何かが切れる感触がした。

 糸が断ち切られるような、乾いた手応え。

 腕の重さが、すっと消えた。


(……切れた?)


 自分でも何をしたのか分からなかった。

 ただ振り払っただけなのに、確かに何かが断ち切れた。


 霧の中の気配が、止まった。


『……面白い』


 声の温度が、わずかに変わった。

 嘲りではなく、興味に近い何かが混じっている。


『金縛りが通じないか。……ならば』


 霧が薄くなり始めた。

 気配の動きが止まり、やがてゆっくりと、その姿が現れた。


 それは人の形をしていなかった。

 霧そのものが凝って体を成したような、輪郭の曖昧な存在。

 顔と呼べる部分に、ぼんやりと目だけが浮かんでいる。


「あなたが……霧の中にいた魔物ですか」


『魘魅と呼べ』


 声は穏やかだった。

 戦意よりも、観察する者の静けさがあった。


『お前は面白い獲物だ。夢に墜ちず、縛れない』


 魘魅の目が、静かに私を見据えていた。


『お前は食べれば、私はより高みへ昇れるだろう』


 霧の塊が、波のように押し寄せる。

 逃げる間もない。霧の圧が胸に迫り、呼吸が浅くなる。


「大地の鼓動よ、今こそ芽吹け!封ぜられし力、胞子に宿りて──聖なる刃は菌糸より現れん!抜けよ、聖剣!」


 詠唱を叫ぶ。

 白い光が手の中に宿る。

 だが、振り上げた剣が霧に触れた瞬間、刃がわずかに逸れた。

 狙った軌道とは違う場所を、剣が空振る。


(……届かない)


 霧が、ただの霧ではない気がした。

 斬っても斬っても、刃が吸い込まれるように外れる。

 まるで、そこにあるはずの空間が、ほんの少しだけずれているような。


(この霧……空間そのものが、歪んでいる?)


 確信ではなかった。

 だが、昨日の戦いで見た和入道の白い炎が、不意に脳裏をよぎった。

 あの時も、攻撃がことごとく弾かれた。

 触れた瞬間を巻き戻して、傷がつかないようにしていた。


 空間を歪める魘魅に、空間を操る和入道の力を宿せたなら。


 根拠はなかった。

 ただ、手の中の聖剣が、微かに熱を帯びた気がした。


「刻は満ちた。炎よ輪となりて、我が刃を照らせ。運命を焼き尽くす和の炎輪よ、今ここに宿れ──」


 詠唱が、口をついて出た。

 次の瞬間、聖剣の刃が橙色に染まった。

 炎ではない。炎に近い何か——時が凝縮されたような、ゆらめく光。

 それが菌糸の刃に絡みつき、剣全体を包んでいく。


『……何をした』


 魘魅の声が、初めて揺れた。

 穏やかさの底に、戸惑いが滲む。


 私は剣を構えた。

 膝が震えていた。腕も震えていた。

 それでも、刃だけは揺れていなかった。


 霧が押し寄せる。

 だが聖剣を前に出した瞬間、刃が霧を真っ直ぐに裂いた。

 逸れない。歪まない。

 空間ごと、断ち切るように。


『——ッ』


 魘魅の輪郭が、大きく揺れた。

 霧が乱れ、形が崩れかける。


 今だ、と体が告げた。


 全力で、聖剣を振り抜いた。


 橙色の光が、魘魅の輪郭を縦に断った。

 一瞬の静寂。


 次の瞬間、魘魅の体の内側から何かが崩れる音がした。

 霧が渦を巻き、形を失い——

 やがて静かに、ほどけていった。


 最後に残った目が、私を見た。

 嘲りでも憎しみでもない。

 ただ、静かな驚きだけを残して。


 霧が消えた。

 石畳が足元に戻ってくる。


 私はその場にへたり込んだ。

 膝が震え、手も震え、呼吸がうまくできなかった。


(……終わった)


 頭の奥は静かだった。

 あの声も、もう聞こえない。


 手の中の聖剣が、まだほんのり温かかった。

 橙色の光は消えていたが、その感触だけが残っている。


(何が、起きたんだろう)


 分からなかった。

 ただ剣に念じただけで、本当に力が宿ったのかも、自分では確かめようがない。

 でも確かに、剣は空間の歪みを断ち切った。


 夜の冷気がゆっくりと肺に満ちていく。

 皮膚に触れる空気が、霧のない、ただの夜の空気だと分かった。


 私はしばらく、そこに座ったままでいた。

 重い体を引き起こして建物へ戻った。


 扉を開けると、仲間たちは変わらず眠っていた。

 オーグさんの呼吸が、ゆっくりと深くなっていく。

 メグーちゃんの銀の髪が、燭台の消えかけた光の中で静かに揺れていた。


 霧は晴れた。

 だから、きっと夢も解けていくはずだ。


 私は壁に背を預け、膝を抱えた。

 眠れなかった。眠ろうとも思えなかった。

 ただ、仲間の顔を見ていた。


 やがて、窓の外が白んできた。


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