第83話:霧の捕食者
扉を押して外に出た。
霧は思っていたよりも濃かった。
数メートル先がぼやけ、建物の輪郭がにじんでいる。
足元の石畳だけがかろうじて見えていた。
湿った空気が肺の奥を冷やし、街灯の光は霧に溶けて輪郭を失っていく。
遠くの景色が、ここではまるで別世界の出来事のように遠ざかっていた。
『……ようやく出てきたか』
声が響いた。
さっきまで頭の奥で聞こえていた傲慢な声とは、まるで違う。
低く、落ち着いた男の声。
霧の中のどこかから来る。どこからかは分からない。
声は空気に溶け込み、方向感覚を奪っていく。
「……誰ですか」
問いかけると、声はゆっくりと答えた。
霧の粒子が唇に触れるように、言葉が肌を撫でる。
『それより先に教えてやろう。お前の仲間は全員、夢の底に引きずり込んだ。今頃、逃げられない夢の中で苦しんでいるはずだ』
その言葉に、体が冷えた。
胸の奥で何かが固まる。
仲間たちの顔が一瞬で脳裏に浮かび、彼らの安らかな寝顔が脆く見えた。
手のひらが汗ばんで、石畳の冷たさが指先に伝わる。
「仲間を……どうするつもりですか」
『捕食する。それだけだ。疲弊しているし、数もいる。夢の中で喰らうのに、これ以上の条件はない』
霧の中で、何かがゆっくりと動く気配がした。
姿は見えない。
だが確かに、そこにいる。
音ではなく、空気の流れが変わることで存在を知らせる。
『不思議なのはお前だ。夢に墜ちない。こちらの術が届かない』
言葉は続く。
私には分からなかった。
ただ眠れなかっただけで、何もした覚えはない。
胸の中の不安が、理由を求めてざわつく。
『この場所はお前に馴染んでいる。だから私の術が届きにくい。……なぜかは、お前自身がよく知っているはずだ』
その言葉に、記憶の断片が胸の奥でひっそりと疼いた。
何かを思い出しそうで、しかし指先でつかめない。
自分の過去と、この場所の関係が、薄い膜のように隔てられている。
『まあいい。お前を喰えれば十分だ』
霧の向こうで、滑るような気配が近づく。
足音ではない。
もっとなめらかで、空気を引き裂くことなく這うような動き。
背筋に冷たいものが走る。
「……みんなを、返してください。お願いします」
懇願する声が、夜の冷気に溶けていく。
必死さが言葉の端々に滲む。
だが返ってきたのは、冷たい断絶だった。
『断る』
声は静かで、感情がなかった。
言葉が終わると同時に、霧が一層濃くなった。
視界が狭まり、世界の輪郭がさらに溶けていく。
そのとき、頭の奥で別の声が響いた。
傲慢な嘲りではない。
静かに、底から押し上げてくるような感触だった。
(——臆してはダメ)
声というより衝動に近かった。
意識の底が熱を帯び、ぼやけていた視界がじわりと引き締まる。
胸の奥に灯がともるように、身体の中心から力が戻ってくる。
私は深く息を吸った。
冷たい空気が肺を満たし、現実の輪郭が戻る。
仲間を護るために、一人で戦う。
それしかなかった。
決意が血となり、手足に伝わる。
だが、右腕に奇妙な感覚があった。
糸が絡みついているような、見えない重さ。
意識した途端、腕だけでなく足にも胸にも、静かな抵抗が広がっているのが分かった。
動こうとすると、体がわずかに重くなる。
徐々に、確実に、動きが鈍らされていく。
(金縛り……?)
思考が一瞬、恐怖に引き戻される。
だが声が再び、内側から押し上げてきた。
立て、という命令は命令であり、灯りでもあった。
『無駄だ』
声は穏やかだった。
ただ、事実として告げている。
『私の捕食は、術だけでは終わらない。この霧そのものが、すでにお前の内側に入り込んでいる』
言葉が現実を塗り替える。
気づいたら、足元の石畳が見えなくなっていた。
世界が霧に飲み込まれていく感覚が、皮膚の下で広がる。
腕を振り上げようとするたびに、重力が増すように腕が落ちる。
膝に力を入れようとすると、膝がゆっくりと折れた。
「——深淵なるもの嘆きに震えよ!這い出ろ奈落草の種!!」
転がり込むように詠唱を繰り出した。
種が指先から飛んだ。
霧の中に消えていく。
しばらく沈黙が続いた。
だが霧は変わらない。
奈落草が飲まれた気配だけが、虚しく残る。
『無駄なことを』
声は短く言った。
体が重い。
胸に巻きついている糸が、今度は肩にまで広がっていた。
呼吸するたびに、じわじわと締め上げられていく。息苦しさが現実を押し潰す。
「怨念よ、霧の中に宿りし者よ。この手に応え、再び此処に顕われよ」
声が震えた。
霧の中に幽霊が現れた。
だが一瞬だった。
霧が幽霊を包んで、静かに溶かしていく。
呼び出したものが次々と無に帰す様は、まるで自分の抵抗が紙屑のように扱われるのを見ているようだった。
『ふん、格の低い霊を仕向けてどうするつもりだ』
短く吐き捨てるように言われ、幽霊は消えた。
膝がつき、立とうとしたが腰から下の感覚が薄れていた。
世界が遠ざかる。
(——立て)
頭の奥で、あの声が再び聞こえた。
傲慢な嘲りとは違う。
熱を持った衝動だった。
私は腕に全力を注いだ。
震える腕が、ゆっくりと上がる。
「夜空に浮かぶは深紅!世界を赤く染め上げよ!紅の夜に誇れ!赤月花!!」
赤い光が霧を切り裂いた。
刹那、霧が薄れ、世界の輪郭が戻る。
心臓が跳ね、希望が胸を満たす。
だがその希望は長くは続かなかった。
霧が再び押し寄せ、全身を糸が締め上げた。
腕が落ち、今度は上がらない。
『もう終わりだ』
声は変わらず穏やかだった。
霧の中で何かが動く気配がした。
ゆっくりと、こちらへ近づいてくる。
体が動かない。
指先一本、動かせなかった。
霧が胸まで這い上がっていた。
私は、ただそこに座っていた。
呼吸は浅く、心は燃え尽きそうで、それでも内側の声はまだ囁いている。
立て、と。
守るべきものがある限り、諦めるわけにはいかないという小さな火が、消えかけながらも灯っている。
外側の世界は霧に覆われ、敵は確かに強い。
だが私の内側には、まだ戦う理由が残っている。




