↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
誰も食べない世界に真実を  作者: 農民
第2章:古都の傲焔
PR
82/281

第82話:胸の奥の声が目を覚ます


 外壁には深い亀裂が走り、レンガの継ぎ目からは粉塵が吹き出している。

 窓硝子の大半は吹き飛び、残った破片が風にきらりと光った。

 瓦礫の匂いと、焦げた鉄の匂いが混ざり合い、街の静寂を重くしている。


 それでも屋根と壁さえあれば、今の私たちには十分だった。

 オーグさんが先に入って周囲を確認し、安全を確かめてから皆が続いた。

 彼の動きは戦いの余韻をそのまま引きずったように荒々しかったが、確かめ方は丁寧だった。


「……少し休もうぜェ」


 オーグさんが短く言った。

 声は低く、しかし確かな指示だった。


「……アニーさん、大丈夫ですか?」


 ケビンさんが小声で隣に腰を下ろした。

 肩の力が抜けていない。

 心配そうな顔が、薄暗い室内でひときわ目立つ。


「大丈夫です。少し……疲れただけです」


 そう答えたけれど、本当に大丈夫かと問われると、よく分からなかった。

 体の疲れとは違う、胸の奥に張り付いたような落ち着かなさがある。

 血の匂いがまだ鼻の奥に残り、鼓動は戦闘のリズムを忘れない。


(なんだろう、この感じ)


 戦いが終わった安堵のはずなのに、ざわざわとした不快感が消えない。

 周囲の声や安堵の吐息が、どこか遠くの出来事に思える。


 オーグさんもケビンさんも、メグーちゃんでさえも、あの戦いで私よりずっとよくやっていた。

 私は途中で気を失って、足手まといになった。

 自分の手が震えていたことすら覚えていない。


(でも)


 そこまで考えて、自分でも驚くような感情が浮かんだ。


 腹が立っていた。

 みんなに、ではない。

 自分に、でもない。


 ただ、無性に、どこかへ向けてわけのわからない苛立ちが込み上げてくる。

 胸の中で小さな火種がくすぶり、理由もなく熱を帯びる。


(なんで……こんな気持ちに)


 メグーちゃんが、私の顔をじっと見ていた。

 彼女の銀の瞳は、戦闘の残像を映す鏡のように冷たく、しかし優しさを失っていない。


「……お母さん」


 小さく呼ばれた。

 声は柔らかく、私の輪郭をそっとなぞるようだった。


「顔色、悪い」


 そう言って、メグーちゃんは私の隣に腰を下ろした。

 彼女の体温が伝わる距離にいるだけで、少しだけ安心する。

 黙ったまま私の様子をうかがうその視線に、心配がひしひしと伝わってきた。


「大丈夫、だよ。本当に」


 私は笑おうとして、唇がひくりと動いた。

 言葉は自分を説得するための呪文のように響いた。


「……大丈夫じゃない顔してる」


 メグーちゃんは引かなかった。

 何か言いたいことがあるのに、うまく出てこないような間があった後、そっと私の手に触れた。

 指先の冷たさが、私の内側に触れてくる。


「……何かあったら、言って」


 それだけだった。

 それだけなのに、胸の奥にじわりと何かが広がった。

 言葉の重さが、静かに私の防御を溶かしていく。


 私も目を閉じようとした。

 だが瞼の裏に、さっきの声が戻ってくる。

 低く、嘲るような、それでいてどこか遠い声。


 自分の声じゃない。絶対に違う。

 だが頭の中から離れない。


(——程度の低い)


 その一言が、薄い氷のように胸に落ちる。

 冷たく、鋭く、私の存在を削るように響いた。


 目を開けた。


 窓の外に、白い霧が広がり始めていた。

 さっきまでなかったはずなのに、建物の周囲をじわじわと覆っていく。

 霧は街灯の光を吸い込み、輪郭をぼかしていく。


 空気が変わった、と感じた。

 室内の温度が一度下がったような、音のない何かが忍び込んでくるような感覚。

 息を吸うたびに、冷たさが肺の奥まで届く。


 そして気づいた。

 頭の奥がひどく霞んでいる。


 思考の端がふやけ、言葉が指の間からこぼれ落ちるようだ。

 さっきまで感じていた苛立ちも、落ち着かなさも、すうっと遠のいていく。

 まるで水の中に沈んでいくように、意識の輪郭がぼやけ始めた。


(……眠い)


 そんなはずはない、と思った。

 眠れなかったのに。


 ぼんやりした頭の中で、声がした。


(——起きていなさい)


 ぼんやりした頭の中で、別の声がした。

 傲慢な声とは違う。


 静かに、底から押し上げてくるような声だった。

 その声に引かれるように、霧のかかっていた意識がじわりとはっきりしてくる。

 言葉は命令ではなく、灯りのように働いた。


 顔を上げた。

 仲間が全員眠っていた。


 ケビンさんもオーグさんも、メグーちゃんでさえも。

 見張り当番であるはずのオーグさんの寝息が、静かな室内に響いている。

 彼の胸が上下するたびに、瓦礫の影が揺れた。


(おかしい)


 私は立ち上がり、窓の外を見た。

 霧はさらに濃くなっている。

 建物を包むように、まるで意図を持って広がっているように。


 背筋に冷たいものが走る。

 戦いの余韻が身体を蝕むのではなく、外側から何かが侵入してくる。

 窓枠に手をかけると、ガラスの破片が指先に冷たく刺さった。

 痛みが現実を引き戻す。


 私は静かに、仲間たちの肩に触れた。

 呼吸は浅く、しかし確かに生きている。


 誰かを起こすべきか、それともこのまま見守るべきか。

 判断が霧の中で揺れる。

 だがあの声が、再び私の内側で囁いた。


 窓の外の霧は、ただの気象現象ではない。

 何かが意志を持って広がり、音を吸い込み、思考を薄めていく。


 私はその輪郭を見定めようと、息を殺して耳を澄ませた。

 遠くで、かすかな囁きが混ざり合う。

 言葉にならない声が、霧の中から這い出してくるようだった。


 足元の瓦礫が小さく崩れる音が、室内に鋭く響いた。

 眠りに落ちた仲間たちの安らかな顔が、突然遠いものに思えた。


 守るべきものが、今ここにある。

 私は拳を固め、窓の外へと視線を戻した。


 霧は確実に、こちらへ向かっている。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。