第75話:見張りの夜、囁かれた真実
ロビーの自動扉が、まるで息を潜めるように静かに開いた。
外の人工太陽から差し込む鈍い光が、無人の建物の床に淡く伸びる影を落とす。
埃一つない大理石の床は、まるで昨日まで誰かが丹念に磨いていたかのように艶やかで、冷たい光を反射していた。
「……静かね。人の気配はしないみたい」
メグーちゃんの声は落ち着いていた。
「チッ、気味が悪ィな」
オーグさんが鼻を鳴らし、重い足取りでロビーの奥へと進む。
私は一歩遅れて、そっとロビーに足を踏み入れた。
袖をぎゅっと握りしめ、前髪の奥からおずおずと周囲をうかがう。
「……こ、ここ……ほんとに、誰も……?」
「床が磨かれてる。昨日まで誰かがいたとしか思えないくらいに」
ケビンさんが静かに呟いた。
視線が一帯を流れ、どこかに人の気配がないかを探している。
ロビーの奥には、長く続く廊下が伸びていた。
深紅の絨毯が静かに敷かれ、壁には古風なランプが等間隔に灯っている。
誰もいないはずの空間に、まるで誰かが「ようこそ」と囁いているような、そんな錯覚が胸をざわつかせた。
「……この部屋、開いています」
ケビンさんが小さく声を上げ、ドアノブを回した。
扉は音もなく開き、柔らかな灯りが中から漏れる。
「入るぞォ」
オーグさんが先陣を切って踏み込む。
続いてメグーちゃん、ケビンさん。私は一瞬ためらい、意を決してそっと後に続いた。
部屋の中は、まるで誰かが今しがたまでいたかのように整っていた。
ベッドはきちんと整えられ、空気には微かに花の香りが漂っている。
「……ここ、まるで宿屋の客室みたいね」
「なんだかァ、どっと疲れたぜェ、外には魔物もいるしよォ!メグーォ!ここで一休みしねェか?」
「私は賛成ね」
「……私も……です」
「肝心な時に疲れて動けんのでは話にならん。休んでおくべきだろうな」
オーグさんが頷くと、そのままソファーにドカッと腰を掛けた。
「うぉッ!すげェ!ふかふかだぜェ!これ!!」
「子供みたいな騒がないでよ」
「メグーちゃん、休まなくて平気?」
私はメグーちゃんを見つめながら声をかけた。
「うん、大丈夫、お母さんこそ休んで」
「私は……大丈夫……」
「アニーさん、無理をしないでください。ベッドを使っていいですよ」
「え」
「そうね。見張りは私とケビンでするわ」
「ぼ、僕!?」
「何か不満?」
「い、いえ!!」
「じゃあ、任せます。アニーさん、ゆっくり休んでください」
「わ、わかりました……」
「それじゃ、私とケビンは部屋の外にいるわ。何かあったら知らせる」
「……うむ」
二人が出ていくと、部屋の中はしんと静まり返った。
ベッドに横になったけれど、目が冴えていた。
(品種改良で使えそうな作物を生成しておこう)
地龍を思い浮かべた。
大地の硬さ、岩石の重さ。
それと奈落草の急速成長を組み合わせたら、どうなるだろう。
私はそっと手を伸ばし、静かに詠唱した。
声が漏れないよう、息だけで。
「大地の堅き鱗と、深淵より芽吹く命よ……交わり、壁となれ」
手のひらの上に、小さな緑の板が現れた。
草というより、硬い板状の何か。
指で弾いてみると、カツンという音がした。
植物のはずなのに、石みたいだ。
(……壁になる)
小さくて、崩れやすそうで、とてもこれで攻撃を防げるとは思えない。
でも、確かに私の手で生まれた。
スキル一覧の端に、静かに名前が追加されていた。
──盾壁草
私はそれをそっと握りしめてから、目を閉じた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
メグーとケビンが部屋を出ると、廊下には相変わらず人の気配がなかった。
赤い絨毯が静かに敷かれ、空気はひんやりとしている。
部屋の外にはソファーが置かれており、二人は向かい合って腰を下ろした。
「ケビンも気づいたんでしょ」
「っ!?」
不意に投げかけられた言葉に、ケビンは肩をビクリと震わせた。
「その反応、やっぱりね」
「メグーさん!?」
ケビンは隠し事が苦手だ。自覚はある。
だが、それ以上に顔に出やすいことを、彼はまだ完全には受け入れられていなかった。
「ケビン、今は様子を見た方がいいわ。誤解って可能性の方が高いんだもの」
「……そうですね」
「それと」
「はい?」
「ケビン、人にスキルを使う時は、最後の手段にすることね」
「っ!?」
「やっぱりね。人にもスキルを使えるのね」
「え?……カ、カマをかけたんですか!?」
「声が大きいわね」
「ご、ごめんなさい」
ケビンは慌てて両手で口を覆った。
心臓が早鐘を打っている。
誰にも言っていなかった。言えるはずがなかった。
料理人のスキルで、人に何かを「施す」ことができるなんて——そんな力を持っていると知られたら、どう思われるか分からなかった。
彼の胸の内には、ずっと誰にも言えずにいた秘密があった。
それは──人相手にも、料理人としてのスキルが使えるということだった。




