第71話:回転する怨念
光が、弾けた。
足元の感触が変わった。
石の冷たさが消え、代わりに乾いた空気が全身を包む。
目を開けると、見慣れない天井があった。
古い石造りの壁。
罅割れた床。
遠くで風の鳴る音がする。
「ここは第3層だなァ」
オーグさんの声が聞こえた。
低く、確かめるような声だった。
立ち上がり、周囲を見回す。
廃墟の広間だった。
天井の一部が抜け、青白い光が差し込んでいる。
「……着いた」
ケビンさんが小さく息を吐いた。
「無事に着けましたね」
声に、安堵があった。
隠しきれていない、素直な安堵だった。
「ええ」
メグーちゃんが頷く。
転移の直前まで緊張に引き絞られていた表情が、わずかに緩んでいた。
私も同じだった。
クリスタルに触れた瞬間、光に飲まれ、どこへ飛ぶかも分からないまま身を委ねた。
着いた先が正しい場所かどうかも、降り立つまで分からなかった。
「後は、ミリアリアさんとフェイさんがどこにいるかですね……」
「見つけるしかねェ」
オーグさんが短く言った。
「ここから先は……どの方向に進みますか」
ケビンさんが周囲に目を配る。
静かだった。
風の音だけがある。
「まっすぐ行けば、奥の区画に出るはずよ。龍の気配を微かに感じるわ」
メグーちゃんが答えた。
目が細くなっている。
何かを感じ取っているような顔だった。
一行が歩き出す。
廃墟の通路を進む。
壁には古い彫刻が刻まれていたが、その多くは崩れ、判別がつかない。
建物の扉が、音もなく開いた。
円筒状の都市を吹き抜ける風が、冷たく乾いた空気を連れてくる。
金属と古い石の匂いが混ざり合い、肌を刺すように鼻腔を撫でた。
遠くでは上下逆さまに吊るされた街の灯りが揺れ、歪んだ影が壁に長く伸びている。
どこかで時間がずれているような、世界の縫い目がほころびかけているような気配があった。
胸の奥が小さく震え、足先まで冷たさが伝わる。
呼吸が浅くなり、鼓動が耳の奥で固く鳴る。
目の端に映る仲間たちの表情が、いつもより硬く見えた。
「……何か来るわ」
メグーちゃんの声は囁きのように小さいのに、不思議と空気を震わせた。
その声には恐怖だけでなく、計算と観察が混じっている。
私はその冷静さに救われる一方で、逆に心の奥が締め付けられるのを感じた。
次の瞬間、空間そのものが悲鳴を上げるように軋み、黒煙が渦を巻いて噴き出した。
煙は粘り気を帯び、光を飲み込むように広がる。
煙の中心から、炎を纏った巨大な車輪が転がり出る。
鉄と火の匂いが一気に濃くなり、喉の奥が熱くなる。
その中心には、苦悶に歪んだ男の顔が縛りつけられていた。
虚ろな目は焦点を失い、口は絶え間なく叫び続けている。
顔の表情が、まるで時間の裂け目に捕らわれた記憶のように揺れていた。
「魔物……!」
ケビンさんの声が鋭く響いた。
「ミツケタァ……」
魔物の呻きが低く響き、炎を纏った車輪が轟音と共に回転を始める。
石畳が砕け、火花が散り、焦げた匂いが鼻を刺した。
地面の振動が足裏から脳へと伝わり、世界が微かに揺れる。
「……あの顔、オーグに似てない?」
メグーちゃんが淡々と指を向ける。
言葉に感情の波は薄く、ただ事実を指摘するだけだった。
私はその指先を見つめながら、胸の中で何かが冷たく沈んでいくのを感じた。
「似てねェわ!!」
オーグさんの声が割れ、怒りと困惑が混ざる。
声の震えが、彼自身の動揺を隠せない。
「言ってる場合じゃないです!来ますよ!」
「おっしゃァ!久々に燃えるぜェ!」
オーグさんの拳が車輪に叩きつけられた瞬間、爆音と共に衝撃波が走る。
だが魔物は止まらない。車輪はさらに回転を増し、オーグさんを押し出していく。
筋肉の軋む音、金属と肉が擦れるような鈍い音が辺りに響いた。
「ぐっ……重てェなァ、コイツ!」
車輪の回転が、オーグさんの腕ごと押し込もうとしていた。
足が少しずつ後退し、石畳にひび割れが走る。
「コノママ……ヒキ……コロス……ゥ」
「うォおッ!りャ!!」
オーグさんは咆哮と共に両手で車輪を掴み、持ち上げる。
筋肉が軋み、地面がひび割れる。
彼の額に浮かぶ汗が、必死さを物語っていた。
「うらァ!!」
車輪が地から離れ、空回りを始めるが、勢いは衰えない。
回転する炎が周囲の空気を引き裂き、熱波が波紋のように広がる。
「地上から離しても、勢いが落ちません!」
ケビンさんの声が張り上がる。
炎の回転は空中でもひときわ激しく、熱波が波状に押し寄せてきた。
「援護するわ!いくわよ!」
「はい!」
メグーちゃんとケビンさんの視線が一瞬交わる。
言葉は短いのに、そこに迷いはなかった。
「オーグさん、そのまま掴んでいてください!」
「任せとけェ!!」
ケビンさんが前に出る。
「風と天空の支配者よ!我を阻む風を律せよ!風律──ウインド・アルゲンタビス!!」
ケビンさんの叫びと共に突風が巻き起こり、魔物の炎が一瞬だけかき消える。
風が火を剥ぎ取り、空気が鋭く切り替わる。
「ふん!」
その瞬間を狙って、メグーちゃんが跳躍。
ライダーキックが魔物の顔面に炸裂し、車輪の魔物は高層ビルの壁を打ち砕いて吹き飛ばされた。
衝撃で耳鳴りがして、世界が一瞬白くなる。
私は手を構えた。
炎が弱い今なら、蔦で絡め取れるかもしれない。
心臓が喉元まで上がってくるような感覚を押し殺し、指先に集中する。
「深淵なるもの嘆きに震えよ!這い出ろ奈落草の種!!」
種を投げる。
蔦が魔物を絡め取り、建物の中から這い出してくる。
緑の蔦が黒い炎に絡みつき、対照的な色彩が空間に浮かぶ。
顔が砕けるような音と共に、魔物の回転が止まった。
炎が一気にしぼみ、空間に静寂が訪れる。
車輪の魔物は、軋むような音を最後に、崩れ落ちた。
周囲に漂っていた熱と緊張が、ゆっくりと解けていく。
「うッし!!」
「……終わったわね」
オーグさんが拳を掲げ、メグーちゃんが静かに息を吐く。
私は膝の震えを抑えながら、崩れ落ちた魔物を見つめた。
達成感と同時に、底知れぬ疲労が全身を覆う。
その瞬間だった。
空間が、軋んだ。
炎が、逆流するように揺れる。
煙が、生まれた場所へと戻っていく。
砕けた石畳が、音もなく元の形に戻っていく。
時間が逆流するような感覚に、私の心臓は凍りついた。
(え……?)
気づいた時には、世界が白んでいた。光が薄く広がり、視界がぼやける。
仲間たちの顔が遠ざかり、声が反響するように聞こえた。
そして——
「……何か来るわ」
メグーちゃんの声が、また聞こえた。
声のトーンは先ほどと同じで、しかしその繰り返しが胸の奥に冷たい波紋を広げる。
次の瞬間、空間が悲鳴を上げるように軋み、黒煙が渦を巻いて噴き出した。
煙の中心から、炎を纏った巨大な車輪が転がり出る。
その中心には、苦悶に歪んだ男の顔が縛りつけられていた。
私は、動けなかった。
さっき、この光景を見た。
さっき、この声を聞いた。
さっき——私たちは、あの魔物を倒したはずだった。
胸の中で、同じ恐怖が何度も反芻される。
時間が繰り返すのか、それとも私たちの記憶が囚われているのか。
答えのない問いだけが、冷たい空気の中で膨らんでいった。




