第70話:黒き主の命令
闇があった。
光もなく、音もなく、ただ密度の高い暗さが満ちている。
空間の輪郭すら曖昧なその場所で、二つの気配が向き合っていた。
一つは床に伏したまま動かない。
頭を深く垂れ、額が冷たい石に触れている。
もう一つは──立っていた。
立っている、という言葉も正確ではないかもしれない。
そこに在る、と言った方が近い。
圧がある。
視線を向けずとも、気配だけで空気が変質するような、そういう存在だった。
「それで」
陽気な声だった。
けれど、温度がない。
「ミリアリアとフェイから、連絡は来た?」
「は」
伏したまま、答えた。
「応援を求む旨のご連絡が参りました。龍の召喚の試みは完成を見ず、供給源を失ったとのことです。彼女らは現在、天使の零落の深部にて──」
「うん、それはどうでもいいかな」
遮られた。
柔らかい声だった。
しかし、その一言で言葉が止まる。
「それより、陛下について、何か言っていた?」
「……は。今だ行方が掴めておりませんと」
「そう」
短く返った。
沈黙が落ちた。
長くはなかった。
しかし、その間に何かが測られているような感覚があった。
「ミリアリアとフェイの応援にはさ、魔物でも向かわせて」
命令だった。
陽気な声のまま、しかし揺るがない。
「は」
「ただし」
声音が変わった。
わずかに、だ。
外から見れば分からないかもしれない。
けれど、聞いている者には分かった。
空気が、一段冷えた。
「殿下に傷を負わせることは許さない」
「……は」
「もし、そうなれば」
一息の間があった。
「お前を殺す」
告げる声は、静かだった。
怒りでもなく、脅しでもなく、ただ言葉の通りのことを述べているだけの声だった。
だから余計に、重かった。
「……肝に銘じます」
「うん」
あっさりと返った。
まるで挨拶のように。
「それと、神の使者は必ず始末しろ。さすがに見過ごせないかな」
「承知しました」
気配が、薄れた。
静かに、何も言わずに。
けれど、ただ遠ざかるのではなく、次の瞬間には完全に消えていた。
残ったのは闇と、伏したままの一つの気配だけだった。
しばらく、動かなかった。
それから、ゆっくりと体を起こした。
暗闇の中で視線を上げる。
影の気配が消えた空間を、しばらく見ていた。
「……命令を下す」
呟きは誰にも向けていない。
それでも声にした。
背後に、気配が四つあった。
そこに影があった。
輪郭がある。形がある。しかし細部は闇に溶けていた。
一つ目の影は、縦に大きかった。
頭が高く、その頂が天井に近い。
横幅も相応にある。
見上げるほどの巨躯の影が、音もなくそこに立っていた。
和入道。
二つ目の影は、横に広かった。
牛の頭部を持つ輪郭が、闇の中でもはっきりと分かった。
太い四肢がわずかにうごめき、低い息の音が空気を揺らす。
牛鬼。
三つ目の影は、腕の数が多かった。
左右に伸びる腕の本数が、数えるには多すぎた。
その先に、細い指が広がっている。
土蜘蛛。
四つ目の影は、小さかった。
三つの影の中に埋もれるほどに。
けれど、その気配は他の三つと質が違った。
薄い。
まるでそこにいないかのように、存在が希薄だった。
魘魅。
四つの影が、静かに前へ向いている。
「天使の零落へ向かえ。目的は分かるな」
声は平坦だった。
「御意」
四つの影が一斉に頭を下げた。
音もなく、乱れもなく、揃って深く。
次の瞬間、影たちの姿は消えた。
煙が消えるようでも、扉が閉まるようでもない。
ただ、そこにいた気配が──無くなった。
闇だけが残る。
影はひとり、その場に立っていた。
右手を静かに胸の前に置く。
声には出さなかった。
ただ胸の内に、それだけを置いた。
それから踵を返し、闇の中を歩き出した。




