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誰も食べない世界に真実を  作者: 農民
第2章:古都の傲焔
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第70話:黒き主の命令


 闇があった。


 光もなく、音もなく、ただ密度の高い暗さが満ちている。

 空間の輪郭すら曖昧なその場所で、二つの気配が向き合っていた。


 一つは床に伏したまま動かない。

 頭を深く垂れ、額が冷たい石に触れている。


 もう一つは──立っていた。


 立っている、という言葉も正確ではないかもしれない。

 そこに在る、と言った方が近い。

 圧がある。

 視線を向けずとも、気配だけで空気が変質するような、そういう存在だった。


「それで」


 陽気な声だった。

 けれど、温度がない。


「ミリアリアとフェイから、連絡は来た?」


「は」


 伏したまま、答えた。


「応援を求む旨のご連絡が参りました。龍の召喚の試みは完成を見ず、供給源を失ったとのことです。彼女らは現在、天使の零落の深部にて──」


「うん、それはどうでもいいかな」


 遮られた。

 柔らかい声だった。

 しかし、その一言で言葉が止まる。


「それより、陛下について、何か言っていた?」


「……は。今だ行方が掴めておりませんと」


「そう」


 短く返った。


 沈黙が落ちた。

 長くはなかった。

 しかし、その間に何かが測られているような感覚があった。


「ミリアリアとフェイの応援にはさ、魔物でも向かわせて」


 命令だった。

 陽気な声のまま、しかし揺るがない。


「は」


「ただし」


 声音が変わった。

 わずかに、だ。

 外から見れば分からないかもしれない。

 けれど、聞いている者には分かった。


 空気が、一段冷えた。


「殿下に傷を負わせることは許さない」


「……は」


「もし、そうなれば」


 一息の間があった。


「お前を殺す」


 告げる声は、静かだった。

 怒りでもなく、脅しでもなく、ただ言葉の通りのことを述べているだけの声だった。

 だから余計に、重かった。


「……肝に銘じます」


「うん」


 あっさりと返った。

 まるで挨拶のように。


「それと、神の使者は必ず始末しろ。さすがに見過ごせないかな」


「承知しました」


 気配が、薄れた。


 静かに、何も言わずに。

 けれど、ただ遠ざかるのではなく、次の瞬間には完全に消えていた。

 残ったのは闇と、伏したままの一つの気配だけだった。


 しばらく、動かなかった。


 それから、ゆっくりと体を起こした。


 暗闇の中で視線を上げる。

 影の気配が消えた空間を、しばらく見ていた。


「……命令を下す」


 呟きは誰にも向けていない。

 それでも声にした。


 背後に、気配が四つあった。


 そこに影があった。

 輪郭がある。形がある。しかし細部は闇に溶けていた。


 一つ目の影は、縦に大きかった。

 頭が高く、その頂が天井に近い。

 横幅も相応にある。

 見上げるほどの巨躯の影が、音もなくそこに立っていた。


 和入道。


 二つ目の影は、横に広かった。

 牛の頭部を持つ輪郭が、闇の中でもはっきりと分かった。

 太い四肢がわずかにうごめき、低い息の音が空気を揺らす。


 牛鬼。


 三つ目の影は、腕の数が多かった。

 左右に伸びる腕の本数が、数えるには多すぎた。

 その先に、細い指が広がっている。


 土蜘蛛。


 四つ目の影は、小さかった。

 三つの影の中に埋もれるほどに。

 けれど、その気配は他の三つと質が違った。

 薄い。

 まるでそこにいないかのように、存在が希薄だった。


 魘魅。


 四つの影が、静かに前へ向いている。


「天使の零落へ向かえ。目的は分かるな」


 声は平坦だった。


「御意」


 四つの影が一斉に頭を下げた。

 音もなく、乱れもなく、揃って深く。


 次の瞬間、影たちの姿は消えた。


 煙が消えるようでも、扉が閉まるようでもない。

 ただ、そこにいた気配が──無くなった。


 闇だけが残る。


 影はひとり、その場に立っていた。

 右手を静かに胸の前に置く。


 声には出さなかった。

 ただ胸の内に、それだけを置いた。


 それから踵を返し、闇の中を歩き出した。


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