第53話:虚空を統べる古き翼
空間が軋むような不協和音を響かせ、まるで世界そのものが悲鳴を上げるかのように虚空が裂けた。
そこから現れたのは、天を統べる者──天竜。
その銀の瞳は、遥か高みから人の営みを見下ろすように冷ややかで、しかしその奥には、長き時を生きた者だけが抱える深い哀しみが滲んでいた。
翼を広げた瞬間、空気が悲鳴を上げる。
逆巻く風が周囲を襲い、浮かぶ石畳が砕け散り、破片が宙を舞った。
まるでこの世界そのものが、天竜の存在を拒絶しながらも畏れているかのようだった。
その圧倒的な威圧の中、ミリアリアさんが一歩、静かに前へ進み出る。
海賊帽の下で金色の髪が風に踊り、蒼い瞳が天竜を真っ直ぐに射抜く。
その姿は、嵐の中心に立つ姫君のように凛としていた。
「ふむ……天の守護者よ。我らの行く手を阻むというのなら、覚悟してもらうぞ」
その声は老練な戦士のように重く、揺るぎない威厳を帯びていた。
時代を超えて響くようなその言葉に、空気が一瞬、静まり返る。
「ま、待ってください!た、戦うんですか!?」
ケビンさんの声が裏返る。
風に煽られ、今にも倒れそうなほど震えていたが、その瞳には仲間を案じる真摯な光が宿っていた。
「相手は地龍や水龍とは格が違いますよ!?」
「おらァ!! 引っ込んでろってんだ、アンポンタン!逃げ場なんざねぇんだよ!!」
オーグさんが吠えるように怒鳴る。
赤い肌を逆立て、筋骨隆々の体を前に出す姿は、まるで戦を求める鬼神そのものだった。
その怒声が空気を震わせ、天竜の威圧とぶつかり合う。
そのとき、天竜の銀の瞳がゆっくりと動き、全員を見渡した。
魂の奥底まで見透かすような視線に、私は思わず肩をすくめる。
前髪の陰で揺れる瞳が、かすかに震えた。
そして、天龍の銀の瞳が、ひとりひとりを静かに見渡した。
私、メグーちゃん、ケビンさん、ミリアリアさん。
——そしてオーグさんのところで、一瞬だけ止まった。
ほんの刹那のことで、気のせいかもしれなかった。
でも確かに、その瞳の色が微かに揺れたように見えた。
『……同じ神の使いが、なぜその者たちと共に在る』
誰に向けた言葉なのか、わからなかった。
場に、短い沈黙が落ちる。
『いずれにせよ。ここから先は龍域なり。侵すことは許さん。直ちに立ち去れ』
その言葉に、ミリアリアさんは唇の端を吊り上げ、不敵に笑った。
「ほう……このまま立ち去れば、我らを見逃すと?そういうことか?」
『左様。我らは人の子らとの争いを好まぬ』
「ふむ……無理な申し出だ。龍域ならば、我らが求めているものが先にある可能性が高い」
一瞬だけ、ミリアリアさんの眉がかすかに動いた。
守るものがあるから守ろうとしている。
それは何なのか——問いかけようとして、やめた。
「おう……ここまで来て、尻尾巻いて帰るわけにはいかねぇんだよ」
オーグさんが拳を鳴らし、前へ踏み出す。
「おらァァァッ!!」
前の戦いで先手を奪われ続けた。
今度こそ最初に動く——そのつもりだったはずだ。
咆哮とともに、鍛え上げられた巨腕が天龍へ突き出される。
拳が空を切る瞬間、天龍の銀の瞳がわずかに細められた。
次の瞬間──。
「なっ……!」
オーグの拳が届く寸前、天龍の巨体が霞のように揺らぎ、消えた。
否、消えたのではない。
風と一体化するようにして、滑るように後退したのだ。
「速ぇ……!」
オーグが舌打ちする間もなく、天龍の尾が空を裂いて振り上げられた。
——しかし、その軌道はオーグをすり抜けるようにして、虚空へと消えた。
追撃できるはずの間合いだった。それなのに天龍は動かない。
ただ、銀の瞳でオーグをじっと見つめていた。
(何かを狙っている?)
壁際から息を詰めて見ていた私は、思わずそう感じた。
地龍も水龍も、隙があれば必ず追った。
なのに天龍は、オーグさんに対して——追ってこない。
その不自然さを感じた次の瞬間、天龍の視線が今度はミリアリアさんへと向いた。
翼が大きく広がり、冷気を帯びた風が吹き荒れる。
「ミリアリアさん!」
ケビンさんが叫ぶが、声は風にかき消された。
それでも震える足で一歩前に出ようとする。
「下がっていろ、ケビン。あれは……ただの龍ではない」
ミリアリアさんが低く呟く。蒼い瞳は鋭く天竜を見据えていた。
天竜が再び姿を現す。
銀の鱗は陽光を反射し、神々の鎧のように輝いていた。
翼を一振りすると、空が唸り、雷鳴のような轟音が響く。
『力に訴え続ける……愚かなる選択だ』
その声は怒りではなく、深い哀しみに満ちていた。
だが次の瞬間、天竜の口元が淡く光を帯びる。
「来るぞ!伏せろ!」
ミリアリアの叫びと同時に、蒼白い閃光が放たれた。
熱ではなく、魂を凍てつかせる冷気の奔流。
石畳が瞬時に凍りつき、空気すら凍結する。
「お母さん、こっち!」
メグーちゃんが私の手を引き、氷の奔流から逃れる。
必死に足を動かす。息が切れる。
膝が笑っていた。
壁際に張りつき、2人の戦いを見つめながら、私は必死に天竜の動きを追い続けた。
藍色の鱗が光を弾く。
翼の付け根のあたり——鱗が重なり合う場所が薄れていないか。
地龍のときも、鱗の重なりの隙間に当てることが突破口になった。
魔物は総じて、翼の付け根や腋の下など、動きの多い部位ほど装甲が薄くなる傾向がある。
嵐の化身たる天竜ならば、動きはさらに素早い分、そこに集中して鱗が摩耗しているはずだ。
天龍の弱点を突くために、何かスキルは使えないか。
必死に頭を巡らせる。
通じそうなスキルはあるけど、私が近づける距離じゃない。
でも……近づけないなら、向こうから何かを引き出す方法は?
私が焦る中、オーグさんが再び天龍へ拳を叩きこもうとする。
だが、先ほどから、天龍はオーグさんに本気で攻撃を返さない。
追撃できるはずのタイミングで、そっぽを向く。
明らかにおかしかった。
(オーグさんと相性が悪い?)
その考えが、頭の中に浮かんだ。
でも——なぜ?
答えは出ないまま、天龍の翼が静かに広がった。
次の標的を定めるように、銀の瞳がすっとオーグさんから外れる。
向いた先は——ミリアリアさんだった。
「来るぞ!」
ミリアリアさんが叫ぶと同時に、蒼白い閃光が迸った。
オーグさんを無視して、私たちへ向けて放たれた一撃。
冷気の奔流が石畳を凍らせ、空気ごと刻んでいく。
「お母さん、こっち!」
メグーちゃんが私の手を引き、辛うじて躱す。
壁際に背を押しつけながら、私はオーグさんを目で追った。
ミリアリアさんが氷の奔流を受け、ケビンさんが転倒する。
なのに——オーグさんだけは、無傷のまま立っていた。
天龍の攻撃は、最初から彼に向いていなかった。
それが、ひどく引っかかった。
「てめぇ……やるじゃねぇか……だがなァ、まだ終わっちゃいねぇぞ!!」
オーグさんは堂々とした様子で笑う。
その背後で、ミリアリアさんが剣を抜く。
蒼い刃が陽光を受けて煌めいた。
「うむ……ここまで来て引き下がるわけにはいかん」
風が再び唸りを上げる。
天と地が交錯する戦いの幕が、今、切って落とされた。




