第52話:天と地の断絶で出会うもの
重力が狂い、天と地の境界が曖昧になる。
石畳は空に浮かび、足元の感覚は頼りなく、まるで宙に放り出されたような錯覚に陥る。
螺旋を描く階段は虚空へと伸び、登っているのか落ちているのかすら判然としない。
空間そのものが夢のように歪み、視界の端では石が逆さに落ち、影が光を放っていた。
ここでは時間の流れすら当てにならない。
数分が永遠に感じられ、永遠が一瞬で過ぎ去る。
自分の輪郭が曖昧になっていくような感覚がして、私は思わず自分の手を見た。
ちゃんとある。ここにいる。そう確認しないと、消えてしまいそうな気がした。
足元が地面に吸い込まれるような感覚がして、反射的に踏ん張ると、今度は前と後ろの感覚が入れ替わる。
胃の中がひっくり返るような浮遊感が波のように押し寄せ、何かに掴まろうとしたが、壁も柱も信じられなかった。
記憶の底に沈んでいた故郷の匂いが、ふっと鼻をかすめて、また消えた。
まるで現実という岸辺から、じわじわと引き離されていくようだった。
「……おわっ!」
甲高い声とともに、ケビンさんの小柄な身体がふわりと宙へ浮いた。
その瞳は恐怖に見開かれ、手足をばたつかせるが、空気は掴ませてくれない。
「おっと!アンポンタン、暴れんなっての!」
オーグさんの怒鳴り声が響き、逞しい腕がケビンさんの手首をがっしりと掴む。
「す、すみません……!」
震える声の奥には、それでも踏ん張ろうとする意志があった。
「まったく……ここじゃ一歩踏み外したら空の餌だぞ。気ぃ抜くな」
オーグさんは眉をひそめつつも、ケビンさんをしっかりと引き戻す。
重力が狂ったこの空間では、地に足をつけている限りは安定しているが、踏み外せば最後だ。
「しっかしよォ……どこまで続いてんだ、この穴は」
オーグが大穴を覗き込んだ瞬間、ゴゴゴ……という不穏な音とともに、巨大な岩が"上から"落ちてきた。
「うおっ!?なんで上だよ!」
反射的に身を逸らし、間一髪で回避する。
岩は彼の脇をすり抜け、虚空へと消えていった。
「……あっぶねぇ。心臓止まるかと思ったぜ」
額の汗を拭うオーグさんに、ミリアリアさんが冷ややかに言う。
「オーグ、お前が動揺してどうする。頼りにしてるんだぞ」
「ぐ……耳が痛ぇこった」
照れ隠しのように頭を掻くオーグさん。
そのやり取りに、わずかに空気が和らいだ──その時だった。
メグーちゃんの足がふと止まった。
銀の瞳がわずかに見開かれ、張り詰めた気配が小さな身体から滲み出す。
空気が凍りついたように、場の温度が一瞬で変わった。
ミリアリアさんもすぐに気づいた。
蒼い瞳が鋭く細まり、金の髪が風もないのにふわりと揺れる。
「メグー、何か見えたのか」
「……魔物。しかも……龍、だと思う。下から来る空気の流れが変わった。普通の空気じゃない」
「龍……だと?」
ミリアリアの声が低く唸る。
メグーちゃんは無言で大穴の縁へ歩み寄り、底を覗き込む。
その姿はまるで神託を受ける巫女のようで、現実離れした静謐さがあった。
「メグーちゃん!?」
思わず声が漏れる。
胸の奥がざわつき、嫌な予感が背筋を走る。
「お母さん、壁の方に。大丈夫、私がいるから」
振り返らずに言うその声音は、年齢に似つかわしくないほど落ち着いていた。
「う、うん……!」
私は素早く壁際へ下がった。
(何か、できることはないか)
言葉にならないうちに、その問いが浮かんだ。ただ見ているだけでいいのか。私のスキルで、何か役に立てることが——。
心臓が早鐘のように鳴っていた。
壁に背を押しつけながら、息を整える。
——龍。
しかも天龍。
読んだことはある。
嵐を呼ぶ、空の支配者。
地龍とも水龍とも、戦い方が違うはずだ。
でも、どう違うのか、今すぐには思い出せなかった。
思い出せ。必死に記憶を手繰る。
天龍は嵐を統べる……電撃と風……読んだのはどの本だったか。
確か、魔物生態の棚の、背表紙が傷んでいた一冊——「天空魔物誌」だったか「嵐の獣たち」だったか。
内容は頭に入っているのに、肝心な部分がひらひらと逃げていく。
(こんな時でも本のことを考えてしまう、と思った。でも、今はそれだけが頼りだった)
「ケビンも下がれ!」
「は、はいっ!」
ケビンさんが震えながら私の隣に並んで壁に背を預けた。
目が合うと、二人して小さく頷いた。それだけで、少し息ができた。
「……あれか」
ミリアリアさんが舌打ち混じりに呟く。焦りを隠しきれていない。
「チッ……天龍とはな」
オーグさんの声が低く唸る。拳を握りしめる音が聞こえた。
その瞬間──
冥府の底へ続くかのような大穴の奥から、黒い影が一閃した。
雷鳴が空気を裂き、地を揺らす。
巻き上がる風が砂塵を舞い上げ、視界を奪った。
そして──
天を統べる者、天龍が姿を現した。
夜空のように深い藍色の鱗。
銀の瞳は冷たくも神々しい光を宿し、長大な体は山脈のようにうねる。
翼を広げたその姿は、まるで空そのものが生きているかのようだった。
天龍──古より語られる天の守護者。
嵐を呼び、雨をもたらし、時に願いを聞き届ける神獣。
しかし、同時に、怒りをもって天罰を下す裁きの化身でもある。
そんな存在が、なぜ冥府の底のような場所に現れたのか。
胸の奥に、言い知れぬ不安が広がっていく。
空を統べる神が地の底に降り立つ理由──それは、決して平穏なものではない。




