第51話:心を映す結晶の下で
天井から逆さに突き出す黒い結晶は、まるで世界の理を嘲笑うかのように、冷たく鈍く光を反射していた。
その漆黒の表面には、覗き込んだ者の心の奥底が映し出されるという。
過去の過ち、胸の奥に秘めた欲望、忘れ去ったはずの罪——それらが容赦なく暴かれ、現実のように浮かび上がる。
結晶に映る己の影に耐えきれず、正気を失った者も少なくないという。
ミリアリアさんさんの姿を見て、誰もが伝承の真実を悟ったに違いない。
「……心配かけたな」
その声はいつものように威厳を帯びていたが、どこか照れを含んでいた。
回復するまでの間、私はずっとそばにいた。
声をかけるでもなく、ただ傍らに座って、呼吸が落ち着くのを待っていた。
何もできなかったけれど、一人にはしたくなかった。
ミリアリアさんさんは海賊帽の影から蒼い瞳を伏せ、白い頬にわずかな紅を差す。
彼女がそんな風に感情を覗かせるのは珍しく。
だからこそ、私は胸の奥に溜まっていた不安がふっと和らぐのを感じた。
立ち上がった彼女の足元で、黒鏡石の破片がかすかに輝いた。
冷たい岩盤から伝わる冷気が足首を包み、荒野の空気は息をするたびに喉の奥を刺すように冷え切っていた。
結晶の表面には今もミリアリアさんさんの姿が映り込んでいたが、彼女はそれを一顧だにせず前を向いた。
「よ、良かったです……ミリアリアさんさんが倒れていた時は、びっくりしました……」
声が震えた。胸の奥に溜まっていた不安が、言葉と一緒にこぼれていく気がした。
目の奥が熱くなって、慌てて前髪の陰に顔を隠した。
「一時はどうなることかと思いました」
ケビンさんが静かに呟く。
その声には不安と安堵が入り混じっていたが、眼差しには確かな勇気が宿っていた。
自分の無力さを噛みしめながらも、仲間を想う気持ちを隠さなかった。
「へっ、いつもの姉御ォだなァ」
オーグさんが豪快に笑いながらも、どこか安堵の色を滲ませて言った。
その赤銅色の肌に浮かぶ汗は、戦いの熱気だけではない。
仲間を失う恐怖を、押し殺していたのだと伝わってきた。
ミリアリアさんはゆっくりと立ち上がり、海賊服の裾を払うと、静かに周囲を見渡した。
蒼い瞳が鋭く光を捉え、彼女の中に再び芯の強さが戻ってきたのが分かる。
「……もう、かなり進んだようだな」
その言葉に、皆が自然と視線を南へ向けた。
そこには、まるで世界の終わりを示すかのように、漆黒の壁が地平線を覆っていた。
第1層と第2層の境界——あの絶望と恐怖の地を越えてきた証が、確かにそこにあった。
そして、ミリアリアさんは北を見やる。
彼女の視線の先には、さらに巨大な黒い壁が立ちはだかっていた。
世界をも覆い隠すようにも見えるその壁は見る者に無言の圧力を与える。
「第3層はもうすぐか」
その言葉には、覚悟と決意、そしてほんのわずかな不安が滲んでいた。
「そうね」
メグーちゃんが短く頷く。銀の髪が静かに揺れ、無表情の中に微かな感情の波が見えた。
その瞳は、すでにその先を見据えている。
冷静でありながら、確かに仲間を想う心がそこにあった。
黒い結晶の下、私たちは再び歩みを進めた。
己の心と向き合い、なおも前へ進むその姿は、まるで闇を裂く光のように、静かに、しかし確かに輝いていた。
黒々とした岩肌の壁が、まるで世界の終わりを告げるかのように彼らの前に立ちはだかっていた。
その壁の中心に、ぽっかりと空いた巨大な穴が口を開けている。
底の見えないその闇は、まるで地の底へと続く奈落のようで、見下ろすだけで吸い込まれそうな錯覚を覚える。
穴の内壁には、螺旋状の細い道が刻まれており、それがぐるぐると下方へと続いていた。
風が下から吹き上げ、冷たい空気が肌を撫でる。
私は思わず身をすくめ、前髪の奥で目を細めた。
「ゆくぞ」
ミリアリアさんの声は、静寂を切り裂くように凛としていた。
海賊帽の下から金色の髪が風に揺れ、蒼い瞳が闇の奥を見据えている。
その背中には、誰もが自然と従いたくなる威厳があった。
私も、その後ろに足を踏み出した。
怖い。でも、確かに自分の足で。
さらに後ろに、無表情ながらも足取りの確かなメグーちゃん、緊張で肩をすくめながらも一歩一歩を踏みしめるケビンさん。
そして最後尾には、赤い肌をした巨体のオーグさんがどっしりと続いた。
降りるにつれて、空気が変わった。湿気が増し、音が吸い込まれるように静かになる。
黒鏡石の荒野のひりつくような乾いた冷たさとは違う、重く底に沈むような冷えだった。
「チンチクリン、アンポンタン、足を滑らせるんじゃねェぞ」
オーグさんの怒鳴るような声が響く。
私はびくりと肩を跳ねさせながらも、小さく「はい!」と答えた。
ケビンさんも慌てて「わ、わかりました」と声を上ずらせる。
「ふ、オーグもいつの間にか兄貴分だな」
ミリアリアさんは振り返り、ふっと微笑んだ。
その笑みは、どこか懐かしさを帯びていて、彼女の過去を垣間見せるようだった。
その様子を見ていたメグーちゃんが、首を傾げながら問いかける。
「ね、ミリアリアさんは、オーグとの付き合いは長いのかしら?」
その問いに、ミリアリアさんは少し目を細め、口元に笑みを浮かべた。
「ほう。メグー、お主が我に関心を持つとは、珍しいこともあるものだな」
メグーちゃんはすぐにぷいっと顔を背けたが、その頬がわずかに赤らんでいるのを私は見逃さなかった。
「すまん。つい、茶化してみたくなったのだ。我とオーグは……そうだな、長い付き合いになる」
「最初は、フェイさんとミリアリアさんさんで旅をしていたんですか?」
ケビンさんが恐る恐る尋ねると、ミリアリアさんは一瞬、遠い記憶を探るように目を伏せた。
「いや……最初は……私とフェイ、それに……従者が1人おってな」
「従者?」
私が小さく首を傾げる。
前髪の奥から覗く瞳には、純粋な好奇心が宿っていた。
ミリアリアさんさんは一瞬、言葉を詰まらせた。
何かを思い出したように、一呼吸置いて言葉を濁した。
「あ……ああ、まぁ、傭兵みたいなものだな」
「そうなんですね」
それ以上は深く聞けなかった。
聞けなかったのは、言葉が詰まったからじゃない。
ミリアリアさんさんの表情が、一瞬だけ変わったのを見てしまったからだ。
いつもの威厳がすっと引いて、代わりに何か——名前のつけにくい何かが、瞳の奥に浮かんで、すぐに消えた。
触れてはいけない場所に踏み込んでしまいそうで、私は言葉を飲み込んだ。
でも、気になって仕方なかった。
「従者」という言葉だけが、心の中でずっと揺れていた。
「傭兵を雇って旅していたんですか?」
「……ああ、あれはまだ……我らがメグーぐらいの歳の頃だ」
「そんな……幼い頃から?」
ケビンさんの声には驚きと尊敬が入り混じっていた。
自分がようやく旅に出たばかりなのに、彼らはそんな昔から戦いの中にいたのかと、胸の奥がざわつく。
「おう、俺がァ、フェイのアニキに助けてもらったのも、そんぐらいの時だったなァ」
オーグさんが懐かしむように笑う。
その顔には、いつもの荒々しさとは違う、どこか柔らかな表情が浮かんでいた。
オーグさんがフェイさんのことを話す時は、いつもこういう顔になる。
「ああ、我ら3人に、続けてオーグが仲間になった。そして……」
ミリアリアさんの声がふと途切れる。
彼女の瞳が、過去のどこか遠くを見つめていた。
「ミリアリアさんさん?」
私がそっと声をかける。
「色々とあってな、我の姉と妹が加わって、6人で世界中を旅したものだ」
「おう、懐かしいぜェ」
オーグさんが低く呟く。
彼の声にも、かつての絆を思い出すような温もりがあった。
ふと感じたあの違和感が、胸の端をかすめる。
オーグさんの声には、懐かしさと温もりがあった。
でも、ミリアリアさんの声は違う。
同じ思い出を語っているはずなのに、彼女の声の底には、悲しみよりも深いところに何かが沈んでいる気がした。
怒り、だろうか。
いや、それとも──。
(何に、怒っているんだろう)
答えは出なかった。
ミリアリアさんは何も語らないし、私には聞く勇気がなかった。
「ねえ、メグーちゃん」
「なに?」
「ミリアリアさんのこと……信じていい、よね」
メグーちゃんは少し間を置いた。
「何があっても、私がお母さんを護る」
それだけ言って、前を向いた。
信じていいとも、いけないとも言わなかった。
でも、その言葉の意味は分かった気がした。
それ以上、聞けなかった。




