第50話:異界の静寂と記憶の裂け目
第2層に入ってから、何日が経っただろう。
地龍も水龍も、もう遠い出来事のように感じる。
それでも、確かに私たちはここまで来た。
黒い結晶が地面から無数に突き出し、まるで大地が呪われたかのような異様な景色が、徐々に開けていく。
やがて、結晶の密度が薄れ、視界の先にぽっかりと空いた広場が現れた。
そこは、テントを張るには十分すぎるほどの空間で、周囲を取り囲む黒水晶の林が、まるで外界から切り離された異界のような静けさを漂わせていた。
「今日は、ここで休憩にしませんか?」
私の声は、いつもより少しだけ大きく、けれどどこか頼りなげに空気を震わせた。
「おう、俺ァ、賛成だ」
オーグさんの低く響く声が、場の空気を和ませるように響いた。
ケビンさんとオーグさんが、私の背に負ぶさるミリアリアさんを見て、心配そうに眉をひそめる。
私はその視線に気づき、ぎこちなく微笑んで頷いた。
すると、ケビンさんがすぐに動き、手際よく地面にシートを広げてくれる。
「あり、ありがとうございます……」
私は思わず声を詰まらせながら礼を言う。
ケビンさんは、少し照れたように笑って首を振った。
「いいえ、ミリアリアさんをいつも運んでいただいて、ありがとうございます」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
ケビンさんも、私と同じ気持ちなのだ。
ミリアリアさんには、命を救われた恩がある。
だからこそ、彼女が倒れたとき、私は迷わず「私が運びます」と申し出た。
女性同士の方が気を遣わずに済むし、この旅で鍛えられた身体なら、彼女の体重くらいどうということはなかった。
私はそっとミリアリアさんを地面に寝かせる。
彼女の白い肌は、まるで月光を宿したかのように淡く輝いていた。
ふと、いつかサキュウスさんと対峙したときに胸の奥で芽吹きかけた、小さな疑念が頭をよぎった。
あのとき私は「みんなを信じています」と言って、それを押し込めた。
今もその気持ちに嘘はない。
ない、けれど──こうして力なく横たわるミリアリアさんを見ていると、彼女もまた、何かを背負って前に進んでいるのだという気がした。
その「何か」を、私はまだ知らない。
「ミリアリアの容体はどう?」
隣に立つメグーちゃんが、静かな声で尋ねてくる。
銀色の髪が風に揺れ、彼女の神秘的な瞳が私を見つめていた。
「すごく魘されていたけど、今は落ち着いている……と思う」
「そう……何か手伝えることがあったら、教えてね」
「うん……メグーちゃん、ありがとう」
私の言葉に、メグーちゃんはふと空を見上げ、小さく呟いた。
「こんなことなら、グリーを連れてくれば良かったわね」
「うん……でも、大所帯になりすぎると、魔力圏外だと大変だから……」
「それも……そうね」
私たちは、1層に放したグリーの姿を思い浮かべた。
あの時の決断は間違っていなかったはずだ。
けれど、今は少しだけ、あの頼もしい存在が恋しかった。
そのときだった。
「うっ……ここ……は?」
かすれた声が、静寂を破った。
「ミリアリアさん!?」
私は驚いて振り返る。
ミリアリアさんがゆっくりと上体を起こし、額に手を当てていた。
白い肌に浮かぶ冷や汗が、彼女の苦悶を物語っている。
「うっ……すまない。どうやら迷惑をかけているようだな」
「い、いえ!気にしないでください!い、今は!ゆっくりと休んでください!」
私は慌てて言葉を返す。
心臓が早鐘のように鳴っていた。
その声に気づいたのか、オーグさんとケビンさんが駆け寄ってくる。
「姉御ォ!?」
「ミリアリアさん!?」
だが、ミリアリアさんは二人を見つめ、困惑したように眉をひそめた。
「……貴殿らは、誰だ?」
「へ?」
「おう!?」
その一言に、場の空気が凍りついた。
ミリアリアさんの蒼い瞳が、まるで初めて見るものを観察するように、オーグさんとケビンさんを見つめている。
「姉御ォ!俺だよ!俺!!」
「僕はケビンです!」
二人の必死の呼びかけにも、ミリアリアさんの表情は変わらない。
彼女は私に視線を移し、かすかに眉を寄せた。
「すまない……酷く……記憶が混乱しているようだ。フェイかサキュウスを呼んできてくれないか……」
その言葉に、私は息を呑む。
私のことは、覚えているのだろうか?それとも、ただ女性というだけで頼ったのか……。
──フェイ。サキュウス。
記憶が混乱しても、この人たちの名前は出てくるのだと思うと、胸の奥に、静かな疑問が灯った。
「姉御ォ!アニキはいねぇし!サキュウスなんざァ、呼んで堪るかァ!」
オーグさんが怒気を含んだ声で叫ぶが、ミリアリアさんはその意味すら理解できないように、周囲を見渡していた。
「ここは……それに……お前らは……誰だ?」
「あ、あの!」
「記憶がないのかしら?」
「え、えええぇぇ!?」
私は震える声で問いかける。
「ミリアリアさん!?わ、私のことはわ、わかりますか!?」
「む?当たり前だ。お、お前は……あ……あれ……」
ミリアリアさんの瞳が私を捉えた瞬間、彼女の顔が苦悶に歪む。
両手で頭を抱え、呻き声を漏らした。
「ミリアリアさん!?」
「な……なぜ……名前が出てこない……」
その姿に、胸が締めつけられる。
あの堂々とした彼女が、こんなにも弱々しく見えるなんて。
──でも、顔は覚えていてくれた。
名前が出てこなくても、「当たり前だ」と言ってくれた。
それが嬉しいのか悲しいのか、私には分からなかった。
両方だった。
「お母さん。今は、刺激するの、やめておきましょう」
メグーちゃんの冷静な声が、私の混乱を静めてくれる。
「……うん」
「ね、オーグもケビンも、今はそっとしておきましょう。記憶が混乱しているだけよ」
オーグさんとケビンさんは、悔しそうに唇を噛みながらも、ミリアリアさんを見つめ、やがて頷いた。
「分かりました」
「俺のことも忘れちまうなんてよォ、ショックだぜェ」
「そう言わないでくださいよ。オーグさん」
「けっ!」
二人は背を向け、再びテントの準備に戻っていった。
ケビンさんは何も言わなかった。
ただ、静かに布を広げて、手を動かし続けていた。
その横顔を見ると、目元が少し赤かった。
「お母さんは一緒にいてあげて」
「え?でも?」
メグーちゃんは一瞬言葉を迷ったが、すぐに言い直した。
「ううん、やっぱり、ミリアリアには誰かが傍にいてあげた方がいいわ」
私は頷いた。
今は、彼女を一人にしてはいけない。
たとえ名前を忘れられても、私は、彼女の傍にいたかった。




