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誰も食べない世界に真実を  作者: 農民
第2章:古都の傲焔
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第50話:異界の静寂と記憶の裂け目


 第2層に入ってから、何日が経っただろう。

 地龍も水龍も、もう遠い出来事のように感じる。

 それでも、確かに私たちはここまで来た。


 黒い結晶が地面から無数に突き出し、まるで大地が呪われたかのような異様な景色が、徐々に開けていく。

 やがて、結晶の密度が薄れ、視界の先にぽっかりと空いた広場が現れた。

 そこは、テントを張るには十分すぎるほどの空間で、周囲を取り囲む黒水晶の林が、まるで外界から切り離された異界のような静けさを漂わせていた。


「今日は、ここで休憩にしませんか?」


 私の声は、いつもより少しだけ大きく、けれどどこか頼りなげに空気を震わせた。


「おう、俺ァ、賛成だ」


 オーグさんの低く響く声が、場の空気を和ませるように響いた。


 ケビンさんとオーグさんが、私の背に負ぶさるミリアリアさんを見て、心配そうに眉をひそめる。

 私はその視線に気づき、ぎこちなく微笑んで頷いた。

 すると、ケビンさんがすぐに動き、手際よく地面にシートを広げてくれる。


「あり、ありがとうございます……」


 私は思わず声を詰まらせながら礼を言う。

 ケビンさんは、少し照れたように笑って首を振った。


「いいえ、ミリアリアさんをいつも運んでいただいて、ありがとうございます」


 その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。

 ケビンさんも、私と同じ気持ちなのだ。

 ミリアリアさんには、命を救われた恩がある。

 だからこそ、彼女が倒れたとき、私は迷わず「私が運びます」と申し出た。

 女性同士の方が気を遣わずに済むし、この旅で鍛えられた身体なら、彼女の体重くらいどうということはなかった。


 私はそっとミリアリアさんを地面に寝かせる。

 彼女の白い肌は、まるで月光を宿したかのように淡く輝いていた。


 ふと、いつかサキュウスさんと対峙したときに胸の奥で芽吹きかけた、小さな疑念が頭をよぎった。


 あのとき私は「みんなを信じています」と言って、それを押し込めた。

 今もその気持ちに嘘はない。


 ない、けれど──こうして力なく横たわるミリアリアさんを見ていると、彼女もまた、何かを背負って前に進んでいるのだという気がした。

 その「何か」を、私はまだ知らない。


「ミリアリアの容体はどう?」


 隣に立つメグーちゃんが、静かな声で尋ねてくる。

 銀色の髪が風に揺れ、彼女の神秘的な瞳が私を見つめていた。


「すごく魘されていたけど、今は落ち着いている……と思う」

「そう……何か手伝えることがあったら、教えてね」

「うん……メグーちゃん、ありがとう」


 私の言葉に、メグーちゃんはふと空を見上げ、小さく呟いた。


「こんなことなら、グリーを連れてくれば良かったわね」


「うん……でも、大所帯になりすぎると、魔力圏外だと大変だから……」

「それも……そうね」


 私たちは、1層に放したグリーの姿を思い浮かべた。

 あの時の決断は間違っていなかったはずだ。

 けれど、今は少しだけ、あの頼もしい存在が恋しかった。


 そのときだった。


「うっ……ここ……は?」


 かすれた声が、静寂を破った。


「ミリアリアさん!?」


 私は驚いて振り返る。

 ミリアリアさんがゆっくりと上体を起こし、額に手を当てていた。

 白い肌に浮かぶ冷や汗が、彼女の苦悶を物語っている。


「うっ……すまない。どうやら迷惑をかけているようだな」

「い、いえ!気にしないでください!い、今は!ゆっくりと休んでください!」


 私は慌てて言葉を返す。

 心臓が早鐘のように鳴っていた。

 その声に気づいたのか、オーグさんとケビンさんが駆け寄ってくる。


「姉御ォ!?」

「ミリアリアさん!?」


 だが、ミリアリアさんは二人を見つめ、困惑したように眉をひそめた。


「……貴殿らは、誰だ?」


「へ?」

「おう!?」


 その一言に、場の空気が凍りついた。

 ミリアリアさんの蒼い瞳が、まるで初めて見るものを観察するように、オーグさんとケビンさんを見つめている。


「姉御ォ!俺だよ!俺!!」

「僕はケビンです!」


 二人の必死の呼びかけにも、ミリアリアさんの表情は変わらない。

 彼女は私に視線を移し、かすかに眉を寄せた。


「すまない……酷く……記憶が混乱しているようだ。フェイかサキュウスを呼んできてくれないか……」


 その言葉に、私は息を呑む。

 私のことは、覚えているのだろうか?それとも、ただ女性というだけで頼ったのか……。


 ──フェイ。サキュウス。

 記憶が混乱しても、この人たちの名前は出てくるのだと思うと、胸の奥に、静かな疑問が灯った。


「姉御ォ!アニキはいねぇし!サキュウスなんざァ、呼んで堪るかァ!」


 オーグさんが怒気を含んだ声で叫ぶが、ミリアリアさんはその意味すら理解できないように、周囲を見渡していた。


「ここは……それに……お前らは……誰だ?」


「あ、あの!」

「記憶がないのかしら?」


「え、えええぇぇ!?」


 私は震える声で問いかける。


「ミリアリアさん!?わ、私のことはわ、わかりますか!?」

「む?当たり前だ。お、お前は……あ……あれ……」


 ミリアリアさんの瞳が私を捉えた瞬間、彼女の顔が苦悶に歪む。

 両手で頭を抱え、呻き声を漏らした。


「ミリアリアさん!?」

「な……なぜ……名前が出てこない……」


 その姿に、胸が締めつけられる。

 あの堂々とした彼女が、こんなにも弱々しく見えるなんて。


 ──でも、顔は覚えていてくれた。

 名前が出てこなくても、「当たり前だ」と言ってくれた。

 それが嬉しいのか悲しいのか、私には分からなかった。

 両方だった。


「お母さん。今は、刺激するの、やめておきましょう」


 メグーちゃんの冷静な声が、私の混乱を静めてくれる。


「……うん」

「ね、オーグもケビンも、今はそっとしておきましょう。記憶が混乱しているだけよ」


 オーグさんとケビンさんは、悔しそうに唇を噛みながらも、ミリアリアさんを見つめ、やがて頷いた。


「分かりました」

「俺のことも忘れちまうなんてよォ、ショックだぜェ」


「そう言わないでくださいよ。オーグさん」

「けっ!」


 二人は背を向け、再びテントの準備に戻っていった。

 ケビンさんは何も言わなかった。

 ただ、静かに布を広げて、手を動かし続けていた。

 その横顔を見ると、目元が少し赤かった。


「お母さんは一緒にいてあげて」

「え?でも?」


 メグーちゃんは一瞬言葉を迷ったが、すぐに言い直した。


「ううん、やっぱり、ミリアリアには誰かが傍にいてあげた方がいいわ」


 私は頷いた。

 今は、彼女を一人にしてはいけない。

 たとえ名前を忘れられても、私は、彼女の傍にいたかった。


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